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私は道端に転がる、小さな石であった。たまに踏まれたり蹴飛ばされたりする以外は、存外に平和なものである。ひたすら時間を浪費して過ごしていた。こうして時間の浪費を日々繰り返していると、妙な思考癖がついてくる。頭の中にもう1人自分がいるような感覚に陥る(石に人格だなんておかしな話かもしれないが、事実である)。ころり、と蹴飛ばされるその時その人間の顔を見る。サラリーマン風の男性であったが、忙しなさそうに腕時計を見て、何やら遅刻をしそうな雰囲気だった。もし、自分がこの男性であったら、どのような人生になったであろうか。そう考える癖がいつの間にかつくようになっていた。私はちいさな石ころながら、多種多様な人生を空想し今日も時間を浪費する。
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貴方は私のことを、勿体無いほどに大切にして下さいます。私は、料理も裁縫も茶もせいぜい、人並み程度です。それでも貴方が褒めて下さると、私は恥ずかしい気持ちもありますが嬉しさの方が大きく勝るのです。「ほら、見ろ。雪だぞ。」ふと縁側で新聞を広げている貴方を見やると、その先にはちらりちらりと音もなく雪が舞っている。積りはしないかもしれないが、寒さに用心することはない。「貴方、これを羽織りなさいな。風邪を引いてしまうわ。」紺色の半纏を手渡すと、俺は丈夫な方だけどなあとぼやく声が聞こえた。空はどんよりとしては居るが、日の光が僅かに透けている。その様は見ていて絵になるようだとも思った。「貴方、囲炉裏は如何ですか?」何度目かの、薄い緑茶を湯飲みに注ぎながら尋ねると。うーん、と伸びをした。「そうだな、囲炉裏から見る縁側も乙であろうね。」と、広げた新聞と湯飲みを持ってのそりのそりと囲炉裏の側へと移っていく。「冬はいいね。」と少し猫背の貴方は言う。「何がですか?」と私は問う。家事をする身からすれば、暖かい方が断然好きな訳だが。「君が、僕にあれこれ世話を焼いてくれる。僕はそれが好きなんだ。君と沢山話せるじゃないか。」と貴方は恥ずかしげもなくそう言うのです。私は自分の顔が紅潮していくのが分かり、少し顔を背けながら自分の小さい湯飲みに茶を淹れて誤魔化した。
ことり、と目の前の卓に少し薄めの緑茶が入った湯飲みが置かれる。私が薄めの緑茶が、好みなのを知ってかいつもこの変わらない茶を淹れる。「お茶が入りましたよ。」食後の片付けや、諸々の家事をこなした妻と卓を挟んで座り、茶を飲む。最初の辺りは自分が茶を淹れてくれないかと頼んだのが、この習慣のきっかけだったかもしれない。会話がある日もあれば、ない日もある。幸いなことにそれが、苦痛や不安を伴わないのだ。「ありがとう。」湯飲みを掌で包み、一口。嗚呼、いつもの味だ。すっきりとした味の緑茶が、やはり好みだ。「貴方、今日は野良猫がきましたよ。」へえ、珍しいこともあるものだと雰囲気だけで返答しまた湯飲みに口をつける。妻はそれを特に咎めずに、話を続けていく。「とても綺麗な三毛猫でしてね。可愛い声で鳴くのですよ。」妻は目の前にその猫がいるかのように、嬉しそうに話す。「最近じゃ珍しいな。野良猫がまだいるのか。」ポツリと、独り言のように呟く。保健所やら何やらが多く処分したと聞いたことがあった。自分が子供の頃に比べれば、随分数は減ったのではないだろうか。「猫は強いですからね、少しのことではへこたれませんよ。」まるで猫の気持ちを代弁しているような口ぶりだった。自分は、妻がこうして空想をやや交えながら話すのを聞くのが何より好きだった。「また、来るといいなあ。」と妻は楽しみそうに、軒先に視線を向けた。空は墨色に染まり、所々に星が光っているばかりであった。
ふわりと雪の舞う様子は、彼女の髪が揺れて長い睫毛が伏せられている様を思い出させた。幾年か前の冬の日であった。どうしても言いたいことがあるからと、いつもの帰り道より遠回りして公園に寄った。冷えたベンチに座り、彼女の方を見やるが膝のあたりで握った拳を見つめるばかりであった。「私、引っ越すことになりました。」 さらりと、歌のような音で頭に言葉が滑り込む。いやいや、これまでその様な素振りは全く見せなかったじゃないか。「…そうか、いつ頃に?」自分から出た言葉は、酷く冷静でいるように響く。頭の中はこれ程にも混乱しているというのに。「今学期が終わったら、になります。」片手で数えられるその日数に愕然とした。当たり前に側に居られるものと思っていた自分の浅い考えに、少しばかり苦笑する。「随分早いんだな。」寒さで悴んだ手を擦り合わせ、仮初めの暖をとる。風が緩やかに吹き彼女の濡羽烏のような煌めく黒髪を揺らす。長い睫毛は伏せられ、哀しげであった。「離れても、私は貴方の彼女でいて良いのでしょうか。」彼女がやっと口を開いたのは、夕陽が沈む頃だった。何と言われても反論しない、貴方の考えを兎に角聞かせて欲しいという強い目をしていた。「それは、俺が決めることだ。良いに、決まってるだろ。」半ば無理やりに、相手の手を握った。手を繋ぐだなんて言うにはまだ幼さの残る、握り方だった。俺はまだまだ子供だ。「そう、ですね。」彼女は安心したように、にっこりと笑った。
しんと冷えた空気が掛け布団と身体の僅かな隙間から流れ込む。足先を撫で、足首に纏わりつき体温と同化する。いつの間に季節が巡ったのか、自分には記憶が殆ど無かった。つい最近まで、けたたましい蝉の鳴き声に舌打ちをしていたような気がする。「いい加減温かい布団にしないと、風邪引きますよ。」世間では秋も大分深まってきた頃、いつまでも薄い上掛けだけで寝ている自分にやきもきしていたのか、羽毛布団を引っ張ってくる相手を見てもうそんな時期かと少し驚いた。羽毛布団を引っ張り出す光景を見るのは、今年で何回目だろうか。くたびれた薄い上掛けを奪われ、じろりと片眉を吊り上げて相手を見やる。「こ、こっちの方が暖かいんですから、そんな顔しないで下さいよ。」昼間に干したのだろうか、思っていたよりもふんわりと軽い布団にぎゅうぎゅうに包まれた。これじゃあ寝苦しいったら無い。「別に寒く無い。」羽毛布団に埋もれて、呆れた顔をして見せる。少し身じろいで収まりの良い位置に、寝返りを打つ。空気が僅かに揺れるように、羽毛がふわりと音を立てる。「あなたは、少しだけ鈍感だから気付かないだけですよ。毎年この時期に喉風邪引いてるじゃないですか。」普段ぼうっとして見える相手が、そんな些細なことを気にかけていることに驚く。確かに喉風邪を引くのは毎年決まってこの時期であった。去年も確か花梨の蜜を溶かした牛乳を寝る前に飲むようにと、作っていたなと思い出す。「よく、覚えてるな。そんなこと。」布団にくぐもった声はそれでも相手に届いていた。にこりと何故か少しだけ誇らしげに微笑んだ相手は言った。「あなたのことは、どんなことでも覚えてますよ。」
怒った顔や声を荒げる様を見たことが今まで無かった。喜怒哀楽の怒以外の感情が伝わってくることから考えて、特別に感情表現が苦手ではないようだし感情の起伏が極端に少ない訳ではないらしい。どちらかと言えば自分の方が、感情表現が苦手といえよう。そこそこに汚れて帰った時も、怒ることはなかった。何処へ行くかも何をしに行くかも告げずに、ふらりと出て行き血塗れになった自分を見て驚きこそしていたようだが。一通り手当てやら終えた後、悲しそうな寂しそうな目をしてただ一言「あまり、危ないことはしないで下さいね。あなたは平気でも、私は心配なんです。」独り言のようでもあり、懇願されているようでもあったそれに自分は何と答えただろうか。大抵の怪我が1日あれば治る自分の、何を心配する必要があるのか分からなかった。他の人間に比べて治癒力が異常に高いことは、もう気付いているだろう。それでも、困ったような泣きそうな顔で「心配なんです。」と小さな声で呟く。大丈夫だと言ったところで、ただの気休めだ。許容量を超えるような怪我を負った場合、どうなるか自分でさえ分からない。自分を制御しているものが外れてしまうかもしれない。飛躍的な能力を得る代わりに、その間の記憶は自分には殆ど無いのだ。何をしているのか、何をしてしまったのか、誰を壊したのか、後処理の報告で知ることの方が多かった。「ちゃんと帰ってこないと、怒ります。」珍しく意思をはっきり感じさせる声色だった。嗚呼、これが帰る場所というものかとハッとする。 いつの間に自分には勿体無い、温かな空間が出来ていたのだろうと少しと戸惑っていた。こんな空間は、生まれてから持ったことが無かったのだ。何も言わない自分に対して、相手は責めもしなかった。「私はいつでもずっと、待っていますから。」先程とは比べてにこりと微笑んだ目元は僅かに朱を帯びていた。
ああ、まただ。無意識に出る癖というのは、やはり誰にでもあるようだ。それは、例えば自分でいうところの困った時に首をかく癖であったりする。ガリリと硬い音が僅かに響く。白い歯に挟まれた爪が、歪な形になり悲鳴を上げている。ガリリ、ガリ。彼は心ここに在らずといったところだろうか、その目から特別目立った感情は窺い知れなかった。じっと凝視される視線に気が付いた彼が、片眉をひくりと吊り上げた。爪を噛む癖に気が付いたのは、半年程前のことだった。血が滲む一歩手前で、居たたまれなくなって思わず声を掛けたのだった。そうしたら不思議な顔をして、自分の手をまじまじと見つめた彼は気が付かなかったと一言呟いてそれきり黙ってしまった。何故そんなことをするのか、などと聞くのはあまりにも野暮だと思った。自分だって、理由の無い癖のひとつやふたつあるのだ。細い指先にある桜貝のような薄い紅色の綺麗な爪が、歪んで棘を立てているのを見ると何故だか酷く勿体無く感じるのだ。止めさせようとしても、彼がそう言うことを聞かないことは分かっていた。良い意味ではマイペースだし、悪い意味では自己中心的であることを知っていた。それでもどうにかして彼の桜貝の爪を守るべく(彼はそれを望んでいないが)、今日も不器用に声を掛けるのだ「手を繋いでくれませんか。」
鋭い痛みの後に、じわりとした鉄臭さが鼻をついた。思わず身体を強張らせると心配そうにこちらを見ているのに気がつく。特にその視線に対する返事はしなかったが、相手もそれを期待していなかったようだ。上の空だった思考から現実に引き戻され、舌打ちをする。久し振りに口を思い切り噛んでしまっていた。下唇の内側、左側の犬歯の近くを舌でなぞる。傷は然程深くないようだが、ぷくりと腫れていた。嗚呼、これはきっとよく滲みるやつだ。僅かな異変に気が付いて覗き込んでくる大きな目。酷く不機嫌そうな顔をした自分が写り込む目を見つめ返す。左手の人差し指で、下唇を引っ張り小さな傷口を見せてやる。これはなかなか…、と神妙な顔つきでよく分からない感想を述べられた。引っ張っていた指を離し、痛いと声に出さず口の動きだけで伝えると、困りましたねとしんみりと瞬きをする。いつもよりも数段優しく左頬を包まれ、ゆっくりと撫でられる。頬に触れている指先がぼうっと熱を帯びていた。「痛いの痛いの、飛んでいけ。」小さな声で繰り返される呪いを聞きながら、目を閉じる。自分が些細な怪我をする度に、飽きずに呪いをかけるという儀式染みたことがいつから始まったのか思い出すのは少し時間が掛かりそうだ。
そこそこに怪我をした時があった、確か冬の日だったと思う。動けない程でも無かったのでいつも通りに家に帰ったのだが、どうやらそれが衝撃を与えてしまったようだった。青ざめて何か言いたそうに口を数度開けたり閉めたりしていたが、ぽたりと床に垂れた赤黒い色を見て口をキュッと引き結んで、決意をしたような顔つきで手当てしますから奥へ、とリビングの椅子に先導された。見慣れた椅子に腰掛け、深く息を吐く。漸く張っていた糸を緩められる空間まで来られた。予め大きな怪我をしていないことを告げて、軽くシャワーを浴びてこびり付いた赤いぬめりを身体から流した。何度やっても、なかなか臭いが取れない気がする。生臭い、赤い色が幾筋も排水溝へ吸い込まれる。シャワーを終えてからが大変だった。顔から始まり、丁寧に清潔な布で拭かれ傷口の有無を確認され必要なところにはガーゼが几帳面に留められていた。腕も脚も、殆どが誰かの返り血だった。気が付いていたはずなのに、そのことには何も触れられなかった。一通りは見ましたが他に気になるところはありますか?熱を持っている箇所があれば、流石にお医者に見せないといけません。心配そうに、真剣な目でそう告げられる。有無を言わさない瞳だと思った。「大丈夫。殆どが自分の物ではないし、それに…。明日には治る。」嘘では無かった。尋常ならざる回復力を何故か持ち合わせているらしい自分は、1日もあれば大抵のものは治ってしまうのだ。本来ならいつもどおりシャワーをあびて、消毒もそこそこにで良かったのだが。心配性のこの人物は、そうはさせなかった。「今はどうですか。」まだ心配そうにしながら、指先でガーゼを畳んでは伸ばしている様子を見るとどこか納得していないようだった。折り畳んだガーゼをテーブルへ置き、人差し指で胸を突かれる。肋骨と肋骨の重なる堅い箇所に振動が伝わる。そこに致命傷は負っていないのだが。どうやらそういうことではないようだ。「あなたを守れるほど強ければ良かったんですけど。」数回繰り返して左手はゆっくり広げられた。じわじわと高めの体温が心臓の近くまで、侵食をしてきていた。何処で何をしてきたのか、何も問い詰めることをされなかった。気を遣われてるのか、怖いと思われてるのか理由は確かめようがなかった。聞かれても自分に答えられることはごく限られているので、それを察しているのかもしれない。「痛いの痛いの、飛んでいけ。」ぽつりと呟かれた呪いそれが今日に至るまで続いている儀式の始まりだった。
生きなければいけない理由が思いつかない。死んではいけない理由が思いつかない。膨大な時間に溺れていく。それが怖くて、一歩を踏み出すかどうかゆらりゆらりと思考が揺れだす。「私が何処かへ行くには、何か強い理由が必要なの。」彼女は溜息をつく。その後に、冷めた目で此方を見やる。強い意志を持つ、ガラスの様に澄んだ瞳である。「その理由に、貴方はなれない。」なるほど、と妙に納得する。特段頭が良い訳でも、世間で言う格好良いといわれる顔でないのは確かだ。彼女がそう言うのは、当然の様に思えた。「私は貴方の最後を見たくない。」風が強く頬を打つ、散らされた前髪から透けて見える彼女は少し悲しげであった。それは枯れ木が山を覆う、冬の日のことであった。
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