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 「そんなこと、百も承知だ!」
「今、ここで僕らが死んだら母さんはどう思う?」
 母犬を助けに行きたいのは、皆同じ気持ちでした。しかし、今出て行っては人間たちに撃ち殺されてしまいます。母犬を助けに行こうとするのを、皆でなだめてどうにかこの場へ踏み止まらせました。
「僕らは、母さんを守れなかった」
「家も母さんも、何も守れなかった」
 黒獣たちは、物陰から自分たちの巣が焼け落ちていくのを見ていることしかできませんでした。やがて、朝になりすっかり大木が焼けたのを確認して、人間たちは帰っていきました。人間たちが去っても、黒獣たちは警戒してなかなか巣穴へと近づきません。太陽の日差しが、雪の表面を溶かす頃、ようやく黒獣たちは巣穴へと恐る恐る近づいていきました。すっかり焼け落ちてしまった大木は、炭のようになってしまいかつての面影はありません。母犬を寝かせた辺りを探してみると、細い骨が僅かながらに残っていました。黒獣たちは、かつての母犬を思って泣きました。真っ赤な瞳から溢れる涙は、母犬と同じ綺麗な水晶のような涙でした。二日間食事をまともにしていない黒獣たちでしたが、そんなことはまるで頭にありません。細い骨を見て、それぞれが母犬を思って泣きました。
「何もかもを奪った人間が許せない」
「僕らの母さんを殺した。こんな大罪が他にあるものか」
「奴らに僕らを怒らせたということを、思い知らせよう」
「そうだ。人間に嫌われたって、どうということはない」
 黒獣たちの涙はすっかり乾いていました。その真っ赤な瞳に宿るのは、静かな怒りです。それは消えることのない、炎のように黒獣たちの心の中に渦巻いていました。人間たちに仕返しをしよう。黒獣たちの決意が固まるのに、そう時間はかかりませんでした。そして、それは次の新月の夜に、実行に移されることになったのです。それまでの間、黒獣たちは静かに怒りを燃やしながらその鋭い爪を研いで待っていました。
 さあ、いよいよ新月の夜がやってきました。黒獣たちは、冷たい洞窟を新しい巣穴としていました。そこは、巣穴から人間が住む村を見下ろせる、絶好の場所にあったのです。村の明かりが全て消えるのを見届けてから、黒獣たちは巣穴を抜け出して人間が住む村へと駆け出して行きました。途中の沢も谷も、難なく乗り越えて村まで一直線に駆け下りて行きます。黒獣たちの心は、人間に仕返しをするという一点のみです。他のことなど、何も気にとめません。村の近くへ辿り着いてから、それぞれ分かれて人間の家へと忍び込んでいきます。
「村の人間は全て殺そう。母さんの命とは、それでも釣り合いが取れないけれど」
「そうしよう。一人だって逃がしてはいけないよ」
「分かっているさ」
 彼らは騒ぎを起こさず、次々と村の人間を殺していきました。扉を開けて忍び込むときも、人間の喉笛を掻き切るときも、まるで音を立てないのです。黒獣たちは、自分たちの力が、こんなときに活きるとは思ってもいませんでした。音も立てずに次々と人間の命を奪っていく様は、ただの獣というよりも死神に近いものがあります。そうして彼らは、村中の人間を殺し尽くしました。一人の人間に騒がれることもなく、それをやってのけたのです。それがどんなに凄く、そして恐ろしいことか分かるでしょう。そして最後に、人間の家へ火を点けました。暖炉にあった木切れを使って、一軒一軒火を放ったのです。どの家も、とてもよく燃えました。新月で真っ暗な村に、燃える家が次々と現れます。そうして、黒獣たちは村の広場に集まって笑いました。
「ああ、せいせいした! これで母さんも少しは浮かばれる!」
「僕たちを怒らせたのが悪い。そうじゃなきゃ、こんなことはしていないさ」
「これで他の生き物も、きっと安心して暮らせるよ」
 パチパチと爆ぜては崩れる家を見て、黒獣たちは笑いました。自分たちが恐ろしいことをしてしまったという風に、まるで思っていないのです。全ての家が焼け落ちるのを見届けてから、黒獣たちは巣穴へと戻っていきました。その足取りは、とても軽く一晩中駆け回ったようには見えません。巣穴の洞窟へと戻ると、そこには見たこともない生き物がいました。人間のような姿をし、黒いローブを身に纏い深くフードを被っています。黒獣たちは、警戒してその生き物をじっと観察しましたが、まるで体温を感じ取ることができませんでした。このとき、初めて黒獣たちは異形の者に遭遇したのです。
「僕らの家で何をしている」
「ほう、父親に対する態度がそれかね」
 急に父親と名乗りだす相手に、黒獣たちは顔を見合わせました。母犬は、父親のことについて何も触れていなかったのです。黒獣たちを見つめる瞳は、黒獣たちと同じく真っ赤な血のような瞳でした。そして、鋭い爪と牙を持ち合わせているのです。確かに、黒獣たちと似ている点はありました。
「父親なら、どうして母さんを助けなかった!」
「あの時が死ぬ時だからだ。それを左右するのは、死神の仕事だ」
「それならお前は何だ」
 詰め寄る黒獣を両手で制しながら、静かな口調で男は続けていきます。その声は、冷たい空気のように巣穴の床を這って広がっていきます。
「我が名は、悪魔。災厄を振りまき、幸福を取り上げ、絶望を与える存在である」
 黒獣たちはそれを聞いてゾッとしたのです。この男が言ったことを、自分たちが村の人間たちに行ったと気がついてしまいました。そして、この男の血が自分たちに流れているということを、実感させられたのです。身体に流れる血をどうにかすることは、誰にもできません。黒獣たちは、自分が悪魔と等しい存在であると認めざるを得ませんでした。
「僕らは、お前と違う。これは母さんの敵討ちだ」
 そう吠えても苦しい言い訳だと分かっていましたが、自ら悪魔であると認めるのはとてもできません。実際、母犬の敵討ちであることに変わりはありませんでした。黒獣たちは、自分たちの力は母犬を守るため、仲間を守るために使うと決めていたはずです。それならば、村一つ滅ぼすような真似をしなくてもよかったのではないでしょうか。黒獣たちは、母犬の敵討ちと銘打って、村の人間を一人残らず狩りたかったという、恐ろしい気持ちを心の奥底に持っていたのです。それは、黒獣たちが意識をしていない、心の深い深い奥底に眠っていたのでした。まだ心が成熟していない若い黒獣たちは、それに気がつくことができません。
「貴様らの力は、害を及ぼす者にのみ正しく振るわれたか? 関係のない人間にまで、その力が及んでいたのではないか?」
 父親である悪魔の言葉に、黒獣たちは返す言葉が見つかりません。自分たちに害を与えた人間は、せいぜい十人足らずです。村の人間全てではありませんでした。それは紛れもない事実です。しかし、黒獣たちは村の人間全てを殺してしまいました。母犬を殺されたという強い怒りが、彼らの正常な判断を奪っていました。今になって、とんでもないことをしてしまったという思いが、それぞれの黒獣たちの心に渦巻いています。後悔をしたとしても、殺した人間たちが生き返るはずもありません。
「これから長い戦争が始まる。終わりのない、人間との戦争だ。人間は世界中に散らばっている。貴様らの行いは、遅かれ早かれ明らかになるのだ」
「そんなこと、知ったものか。母さんに手を出したのは人間の方だ」
「その罪に加担していない人間を手に掛けたのは、貴様らであろう。恨みは連鎖するということを、よく覚えておくのだな」
 悪魔はそれだけ言い残すと、姿を消してしまいました。恨みは連鎖する、その言葉は黒獣たちの心に静かな重石となっていました。あの村とて、他と交流がないわけではありません。出入りをする人間は存在します。黒獣たちが村の人間全てを殺し、家に火を放ったのは紛れもない事実です。いずれ、人間たちはそれに気がつくでしょう。彼らとて、馬鹿ではありません。近いうちに、人間による黒獣狩りが始まるはずです。それが始まる前に、彼らは逃げなければいけません。いくら力があろうとも、数では人間が圧倒的に有利だからです。
「僕らはどうするべきだろう?」
「こちらから仕掛けるのは分が悪すぎる」
「それぞれ逃げよう。僕ら全員が息絶えぬように」
 黒獣たちは、それぞれ逃げるということに決めました。共に行動していると、彼ら全員が死んでしまう可能性が少なからずあったからです。長年過ごしてきた兄弟たちと離れるのは、とても辛いことです。しかし、これ以上誰かが命を落とすようなことは、あってはならないのでした。黒獣たちは、それぞれ違う方角へと駆け出して行きました。互いに決して後ろは振り返らず、なるべく遠くへと走り続けたのです。時期がくれば、また兄弟たちと顔を合わせることが叶うかもしれません。それがいつになるのかは誰にも分かりません。その後、黒獣たちは各地で仲間を増やし、グループで行動をするようになりました。少しずつ仲間を増やしていった黒獣たちは、当然多くの食料を求めるようになります。そのため、人間が暮らしている地域まで山から下ることも、多くなっていきました。多くの人間は、それをよく思いません。自分たちが暮らしている場所で狩りをされては、人間が食べるものが黒獣たちに取られてしまうからです。次第に黒獣たちと人間たちの、生活範囲が重なる地域がどんどん大きくなっていきました。それはいずれ人間と黒獣との戦いの原因となってしまうのです。ある冬に、黒獣たちは食料がなく、山近くの村付近に狩りへ行きました。そこで一人の人間の少年を、食料として狩ってしまったのです。このことに人間たちは、黙ってはいませんでした。多くの人間が、害を与える黒獣たちを根絶やしにしようと声を上げました。食料がなかったからというのは、黒獣たちの都合であり人間たちは知るところがないのです。この食糧難の冬の出来事が引き金となって人間との大規模な戦争が起き、黒獣たちはその数を大きく減らすことになります。人間たちの重火器の前では、黒獣たちは無力でした。人間の勝利により終わった戦争の後、残った黒獣たちは人里離れた山地に住み、ひっそりと暮らすようになったのです。獲物を求めて、山を何日も歩くことはありましたが、人前に姿を現すことは二度とありませんでした。黒獣は自分たちでは、人間に敵わないということを思い知ったからです。
 これが、黒獣たちが生まれて国中へ散らばったという、古い書物に残る物語です。それから近代に至るまで、黒獣たちの記述はぱったりとなくなっています。黒獣たちは人間の前に姿を現すことがなくなってしまったからです。黒獣たちの行いは、人間の書物に残虐極まりないものとして記されており、災いをもたらす不吉な生き物と描かれています。人間と黒獣の戦争は、大昔の出来事です。そのため、彼らの存在を信じている人間はとても少ないのでした。多くの人たちは、黒獣を昔話の中の生き物だと思っているのです。実際は、黒獣たちは数を減らしましたが、今でもひっそりと山の中で生きているのでした。それを人間たちが知ることは、決してないのです。

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 黒獣が伝説の生き物だと言われることが多いのは、彼らにまつわる話があまりにも神話じみていたからです。しかし、黒獣というのは実在する生き物です。
 この世界に黒獣が生まれたきっかけは、何だったのでしょうか。古い書物の一説によると悪魔と黒い雌犬の血を引き、新月の夜にその産声を上げたとも言われています。つまり、噛まれたからといってその生き物が黒獣になるというわけではありません。黒獣は、生まれもっての血筋ということになります。生まれ落ちた黒獣の子たちは、初めはちっぽけで力もなく、ただ震えて鳴くだけの小さく幼い獣でした。その黒獣と呼ばれる子たちを育てたのが、黒い雌犬だったのです。悪魔との子とはいえ、母犬にとっては黒獣も大切な可愛い我が子たちなのでした。乳を与え、狩りの仕方を教え、野山の歩き方を学ばせました。幼く弱かった黒獣たちは、気が付けば立派な黒い大きな犬へと成長していったのです。黒獣たちの成長は目覚ましいものがありました。狩りの仕方を教えれば、すぐに覚えて獲物を仕留めました。足場の悪い山道も、足を踏み外すことなく楽々と走り抜けてみせました。正に、他者を狩るために生まれてきた生き物といった風でした。これらの成長は、母犬を喜ばせましたが、あまりにも手がかからないので心配をしていました。手のかからない生き物は、どこか心がいびつになってしまうからです。黒い雌犬は、若い黒獣たちの発達しきっていない心を心配していました。
 成長した黒獣たちは、自分と母犬はどうやら違う性質を持っているのだと気付き始めていました。自分たちが聞こえる遠くの物音や、隠れている生き物の体温を見ることは、黒獣である自分たちだけに与えられた能力であり、母犬はそうではなかったのです。姿形は、母犬と似たような犬の姿をしていましたが、母犬のように優しい茶色の目ではなく真っ赤に燃える血のような目をしています。牙も爪も、母犬に比べると、うんと鋭くて力の加減を間違えると簡単に物を壊してしまうのでした。黒獣たちは母犬と同じようになりたかったし、なろうと努力をしていました。遠くの物音が聞こえても聞こえないふりをしましたし、なるべく優しい力で物に触れるようにしていました。しかし、別の血が混ざっているためそれは難しいことです。母犬は黒獣たちに違うことは悪いことではないと教えました。与えられた能力は生きるために必要になるものだと教えたのです。遠くの物音を聞き分ける力も、隠れている生き物の体温を見る力も、力強い牙や爪も、全て必要なもので恥じるべきものではないと教えたのです。黒獣たちは、母犬の教えを聞いて改めて自分たちの力を、上手く使おうと決意したのでした。仲間たちを助けるため、母犬を助けるために自分たちの力を使っていこうと決めたのでした。若い黒獣たちは、まだ血の恐ろしさを知らないのです。彼らの意思とは反する行動を起こさせてしまう、恐ろしい血が流れているという実感がまだなかったのでした。
 黒獣たちも成長し、そろそろ独り立ちの日が近付いていた時期のことです。夜中の狩りを終えて巣穴に戻りましたが、母犬はいませんでした。どこに行ったのか見当がつかないので、ひとまず巣穴で待とうということになりました。やがて夜が明けましたが、母犬が戻ってくる気配はありません。いよいよ心配になってきた黒獣たちは、相談を始めました。
「母さんが戻ってこないなんて、おかしい」
「どこへ行ったのだろう」
「心配だよ、探しに行こう」
 それぞれの黒獣たちは呟きます。身体はすっかり大人になりましたが、彼らはまだ子どもに違いありませんでした。母犬が大好きで、寂しがり屋であったのです。まだ雪が溶け切らない三月の早朝に、黒獣たちは母犬を探しに行くことに決めました。何かあったら必ず遠吠えで知らせるという決まりで、彼らは心当たりのある場所を駆けて行きます。いくら捜しても、なかなか母犬は見つかりませんでした。
 途方に暮れた一匹の黒獣が、とぼとぼと村の外れの農場を歩いていました。いくら呼んでも母犬は返事をしませんし、その体温を見ることさえ叶わなかったのです。これだけ探してもいないということは、母犬は自分たちに愛想を尽かしてしまったのではないかと心配になりました。せめて、母犬に育ててくれたお礼を言いたかったのです。何度も母犬を呼びながら、黒獣は駆けました。足に怪我をしても、まるで気になりません。黒獣が駆けて行った後には、血の跡が雪の上に点々と並んでいました。村の外れの農場の片隅に、母犬が倒れているのを見つけました。大急ぎで母犬の元へ駆けつけましたが、氷のように冷たく優しい茶色の目はぴったりと閉じられていました。自分だけではどうにもできないと思った黒獣は、遠吠えで兄弟たちに知らせました。全員が集まるまで五分もかかりませんでした。すっかり冷たくなってしまった母犬は、人間が仕掛けた罠に首を挟まれていました。辺りの雪は赤くなり、逃れようともがいた跡も見られました。母犬の側には、捕まえた狐が力なく倒れていました。母犬は、狩りが終わり帰る途中に、人間が仕掛けていた罠に掛かってしまったのです。黒獣たちは、突然の母犬の死を受け入れられず静かに母犬を見つめるばかりです。
「母さん、母さん」
 何度呼んでも、母犬は目を開けることはありません。それでも、呼びかけずにはいられませんでした。ここにいては、いつ人間に見つかるか分かりません。日が昇りきってしまう前に、どうするかを決めなくてはいけません。
「置いていくなんて嫌だ」
「じゃあどうする?」
「連れて行こう。僕らの家に」
 罠の鎖を噛み千切り、母犬を背中へ乗せて黒獣たちは急いで巣穴へと戻りました。もう助かる見込みがないということは分かっていましたが、母犬を置いていくことなどとてもできなかったのです。巣穴に戻り、母犬の首から罠を取り外して毛皮をかけました。それでも、冷たい母犬が温かくなることはありません。そうして黒獣たちは、食事も忘れて母犬の側へついていました。
「人間が許せない。母さんは、悪いことなど何もしていないのに」
「奴らはまた罠を仕掛ける。犠牲になるのは弱い生き物だ」
「僕らがどうにかしないと」
 黒獣たちは、ひそひそと話し合いをしました。母犬を殺した恐ろしい罠を、二度と仕掛けさせないためにはどうしたらいいのか頭を悩ませました。やがて日が沈み、辺りは闇に飲まれました。他にも危ない罠を仕掛けているかもしれないから、見回りをしてそれを壊そうということに話が落ち着きました。黒獣たちは、こんな思いを他の生き物たちにさせたくはなかったのです。林道の側、納屋の裏、食料庫、罠はあちらこちらにありました。見つけた罠を一つ残らず壊しながら、彼らはそれぞれの持ち場を見回って行きます。暫くすると、巣穴の方から奇妙な音が聞こえてきました。パチパチという何かが爆ぜる音が聞こえます。胸騒ぎがして、一匹の黒獣が巣穴の方へと駆け出しました。巣穴の様子がおかしいと、遠吠えで兄弟たちへ知らせます。巣穴の近くへと戻った黒獣は、巣穴に火が点けられたのだと悟りました。松明を持った何人もの人間が、巣穴を取り巻いています。古い大木の根元を巣穴としていたのですが、大木はぼうぼうと燃えており、燃え尽きた枝が地面へ次々と落ちてきます。とても近づくことはできません。
「あそこに、母さんがいるのに!」
「今行ったら危ない、あの人間たちは猟銃を持っているよ」
 人間たちはそれぞれ、猟銃を肩から下げています。あの猟銃で撃たれたら、いくら黒獣とはいえただではすみません。それは、母犬から教わったことでした。

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姿も声も聞こえなくなってしまったのだろうかと心配になる程、私の存在は無くなっていた。掌を目の前に翳すと、向こうの景色が透けて見えたし、話し掛けても声は誰にも聞こえていないということだ。誰も私に気付かず、私のことを誰も知らない。何年も過ぎてしまった頃には、私は言葉も忘れてしまった。

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梅の蕾が大きくなっていたことに気が付いた。どうやら随分と外を見ていなかったようである。立春も過ぎ暦は春となったが、風はまだ足元を冷たく舐める。梅の花が咲くのは、いつ頃だろうか。暮らしの中で、そうしたことに気を向ける余裕がなかった。勿体無いことをした。梅が咲いたら暦に印をつけたい。

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悲しかったことはとてもよく覚えている。ペットが死んだことも、友達と喧嘩したことも、好きな人と別れたこともよく覚えている。泡が湧き出るように、そういったことを思い出す。泡は弾ける。悲しかったことは消えない。何度でも湧き出てくる。ひとつひとつ悲しかったことは積み重なる。消えはしない。

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ペンを紙に走らせているときは、心が落ち着いている。紙の手触りやインクの滑り具合、そういったものが心地良い。静かな部屋に、ペンを走らせる音が響く。自分の手に残るということが、安心するのかもしれない。言葉も体温も気持ちも、時間が過ぎれば皆朧になる。紙に残すことで、繋ぎ止めているのだ。

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疎外感というものを感じて一歩踏み込めない。アクリルの壁があり、彼方と此方では少しだけ世界が違う。親しい仲間内でそのように感じるのである。仲間外れにされているという訳ではない。双方そういうつもりはない。それでも疎外感という壁は壊れてくれない。此方は呼吸が苦しいが、彼方はどうだろう。

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砕いた石を撒くと星空を作ることが出来る。これが偽物でも美しいのだからいいのである。砕くという行為は単なる破壊にすぎない。破壊された石の欠片を美しいと思うのは、自分勝手かもしれない。破壊から生まれる物というものに貴さや美しさを感じる。そこにはただの欠片ではなく儚さというものがある。

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騙されるというのが恋の第一段階ではなかろうか。善い人間であり欲深くなく誠実であるという、その人の言葉を成る程と受け取るところから始まる。実際にどんな人間であるかは分からない。疑ってばかりでは何も始まらないのは事実である。一先ず騙されてやろうということである。少し、盲目と似ている。

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希望を持たなければいけないと言われるのは、心が重たくなる。呪われているような心地さえする。悲観をすることは悪だろうか。少なくとも、希望を持つということは強制されるべきことではない。希望を持った振りをするのは簡単だ。口先でどうとでもなる。希望を持つべきだと言われると呼吸がしにくい。

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