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冬の夜は足早にやってくる。すっかり暗くなった道を歩きながら、街頭が立ち並ぶ住宅街を進む。放課後に公園で遊んで帰ることは冬になっても変わらず習慣として残っており、学校が終われば友達と連れ立って遊びに行くのだ。この町は十七時になるとチャイムが響く。今でもテープで流されているそのチャイムの放送は、所々ぶつぶつと途切れて聞こえてくる。恐らくどこの町でもあるのだろうお決まりの「良い子のみんなはおうちに帰りましょう」とアナウンスが流れた。そのチャイムが鳴ると、一人また一人と帰って行くので自分も帰るのだ。(あの家、に。)
僕は家が嫌いだった。
母さんは優しいし、父さんは厳しいけれどそれでも好きだ。そんな理想の両親である二人と僕の三人が住んでいる集合住宅は、築年数は古いが十分な広さだった。何故その普通の暮らしであるものが嫌いなのかというと、家に帰っても一人だからだ。両親は共働きで帰りが遅くなることが多い。小学生に上がる前は母さんは働いていなかったが、僕が小学生に上がった頃から働き始めた。夕食は母さんが作っておいてくれたものを温め直して食べたり、簡単だけれど自分で作ることも覚えた。家に帰って一人で居る時間があてどなく膨大な時間のように感じて憂鬱になるのだ。ランドセルの中から家の鍵を取り出して、無人の家の鍵を開けてただいまと言う。当然返事は返ってこない。もうこれにも慣れてしまった。靴を脱ぎ手洗いとうがいをしてから、リビングのテーブルを見る。今日の夕飯は、ハンバーグとサラダらしい。公園で遊び疲れた体は空腹に小さく泣いた。冷凍庫から一人分の米が詰められたタッパを取り出して、レンジで解凍をする。微かな唸りを上げて黙々と米を温めているレンジの光をぼんやりと見つめる。明るいオレンジに光るレンジの中は、この家よりもよっぽど温かいだろうなと思った。
「いつも、一人なのか。」
突如聞こえた声に、レンジの光に引き込まれていた意識が全て持って行かれた。テレビをつけた覚えはないし、この家には自分以外は居ない筈だ。恐る恐る振り返ると電気を点けていないキッチンの奥に、夜のような黒い服を着た男が立っていた。黒く長い前髪の隙間から覗く肌が恐ろしく白くて、まるでこの世のものでないようだと感じた。家に入ってきたというよりもそこに湧いて現れたようである。切れ長の目を細めてじっと僕のことを見る目は氷よりも冷たそうだ。
「誰、なの。」
漸く振り絞った声は、乾いた唇を微かに震わせた。この得体の知れない男が怖かった。今すぐにでも逃げ出したかったが、恐怖で足が竦んで動かない。
目を逸らすことも出来ずにその男の答えをただじっと待つ。レンジのチンという間抜けな音がキッチンに響いた。
「私は、誰でもない。強いて言えば、この世界の闇であると言える。」
「やみ?」
「子供のお前には分からないかもしれないが、世の中には醜い物事が多いのだよ。それは人々の感情だったり、するのだがね。」
そう言って一歩こちらへと歩みを進める男に反射のようにして、一歩後ずさる。男の言っていることはよく分からなかった。深く沈むような低音の声が鼓膜に貼り付いてしまわないか心配になる。暖房が効き始めた部屋は徐々に暖まって来ている筈なのに、この男の周りの空気だけは外と同じかそれよりも冷えていた。醜い物事、それが今の自分にはまだよく分からないがきっと心の底に自分も持っているのだろうとぼんやりと思う。
「お前は、自分を一人にして働いている両親に不満を持っているのだな。」
「違う、そんなことない!」
いきなり自分でも気付かないようにしていた核心部分へと踏み込まれて、思わず声を荒げる。この男は何者なのだろうか。自分の心の中が分かるのだろうか。あの氷のような冷たい黒目は、心の中を氷で突き刺してどろどろにしてしまう力があるのかもしれない。気が付かないうちに自分の目に涙が溜まってきて、ぼんやりと男の輪郭が部屋の暗がりに溶ける。トレーナーの袖で目元を拭い、慌てて視線を男が居た暗がりに戻す。しかし、男はそこには居なかった。ぞわりと全身に鳥肌が立つのを感じる。半ばパニックになりながら、辺りを見回すがどこにも居ない。電気が点いているリビングにもリビングと一続きになっていて明かりが柔らかく照らすキッチンにも居ない。心臓の音がどくどくと脈打ち、背筋を冷たい汗が流れる。
「私はお前の幸せを手に入れる為の力を持っている。」
背後に凍り付く様な冷気を感じて、慌てて逃げる。キッチンの奥へと逃げ込んでしまいしまった、と思った時にはもう遅かった。大して広くもないキッチンで男との距離を保つことは、絶望的だった。逃げ場を失い背後の残酷にまで硬く白い壁に爪を立てる。ぴきり、と爪が割れる音がしたが痛みもなかった。それよりも目の前に居るこの男へ向けている神経の数が多いのだ。危機的状況に陥ると人は痛みすら忘れてしまうのか、とどこか冷静な頭の片隅が呟く。
「僕、の…幸せ。」
「お前が両親に対して持っている不満の感情が、私をここへ呼んだのだ。私はお前の望みを叶えることが出来る。」
「僕は、呼んでない。」
「お前の不満の感情は闇の一部になっているのだ。」
闇の一部、口の中でもう一度反芻してその言葉を飲み込む。男の言葉は難解で理解し難いものがあるが、僕を殺すつもりでここへ来たのではないらしい。もし殺すつもりであれば僕は既に死んでいるだろうし、ここで会話をしていることもないだろう。男への警戒心は解かぬまま少しでも距離を空けようと壁づたいに、一歩遠ざかる。にやりと弧を描いて笑う口は、口裂け女のように裂けて真っ赤な口内に思わず目を見張る。その口の中から冷気や何か恐ろしいものが出ているような錯覚に陥る。胸の前で拳を握ったまま何とかして恐怖に耐えていたが、ついには足がぽきりと折れてしまったようにしてキッチンの一番奥に座りこんでしまった。まだこの時間では両親は帰ってこないし、大声を出して助けを求めても助けてくれるような人が近くには居ない。自分に対して攻撃してこないとは言えこの男とこの場に居ることは、とてつもなく神経をすり減らすことであって出来ることなら逃げ出したかった。動作の音が全くしない男は空気を滑るようにして、僕の目線の高さへとしゃがみ込む。近い距離で見ると男は意外にも端整な顔立ちをしていて、まだ年齢は若いような印象を受けた。弧を描いて開いていた口は閉じて、言葉は発していない筈なのに頭の中に低く声が響く。
『お前の望むことをひとつだけ叶えることができる。』
響く声に脳を揺さぶられながら目の前の男から視線が外せないで、その黒い両目をじっと見つめる。
(僕の、望むこと…。)
頭に響く声に答えられないまま何分も過ぎて行く。時が止まった様にも感じる。
「私はお前次第では聖母マリアのような優しさも持つが、逆に悪魔のような残虐なことも平気で出来るぞ。」
男はそう言って、目を細めて歪んだ笑顔を作る。そっと頭を撫でる手はやはり真白な作り物のような手で異質な物のようである。しかし、意外にも男の手は低体温ではあるが人並みの熱を帯びていたのだ。
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