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しんしんと雪が降り積もるなか、私達は居間で夕飯を食べる。
「今日、クリスマスですよね。」
智恵子は2人で囲む鍋の具材を取り分けながら、そう言った。
「噂では知っているよ?」
鍋の具で満たされた取り皿を受け取り、卓は縁側を見る。
珍しく積もりそうな雪の振り方をしている。
「やはり、何処か出掛けたかったかい?」
「いえ、卓さんと居られればそれで充分です。それに、この雪ですしね。」
「まあ、ねえ。こんなに降るとは思わなかったよ。」
この地域では異例の積雪だった。
普段あまり雪が降らないので、非日常感が町を包んでいた。
「天気予報って本当に当たるものですね。」
「そうだねえ。」
2人で鍋を食べながら、のんびりと過ごすのもまた良いものである。
世間で言うクリスマスとは、ほど遠い様な雰囲気ではあるが。
それが自分達には合っていると卓は思っていた。
煌びやかなイルミネーションに白い雪が被るのは、非常に幻想的な風景だろう。
夕飯を食べ終えて、片付けが済んでゆっくりお茶を飲もうということになった。
「さて、実は君に渡すものがあるのだよ。取ってきても良いかい?」
「私にですか?ありがとうございます。」
そうして一旦居間を離れる。
ふう、と1つ溜息を吐く。
雑然とした自分の書斎へと向かい、以前より用意していた小箱を取り出す。
さあ、いよいよ緊張してきた。
しかし、居間に智恵子を待たせている卓は早く戻らなければならなかった。
覚悟を決めて、居間へと戻る。
「お待たせ。」
「いいえ。」
落ち着いた君の声は、心地よく耳に響く。
智恵子の向かい側へと座った卓は、小箱を取り出してみせた。
「クリスマスプレゼントだよ。」
「わあ、ありがとうございます!」
嬉しそうに笑う智恵子の顔が見れて、卓は胸を撫で下ろした。
漸く緊張もさざ波の様に引いていく。
プレゼントに選んだのは、花をモチーフにしたアメジストの小さなネックレスだ。
智恵子は嬉しそうだが少し困った様な顔をして、卓に尋ねる。
「こんな高価な物を私が頂いて良いのですか?」
「勿論さ。気にすることないよ。」
「つけて頂いても…?」
「ああ、私がするよ。」
智恵子の側へ行き、卓は受け取ったネックレスを智恵子に着ける。
ほのかに香るシャンプーの匂いがした。
「はい、出来た。」
「ありがとうございます。似合いますかね?」
「うん、勿論さ。よく似合っている。」
恥ずかしそうに笑う智恵子を褒めると、頬を赤くした。
「お付き合いをする…となると、先生は色々と不都合じゃありませんか?私みたいな学生相手だと、先生が悪い様に言われてしまうのではないかと、心配で…。」
「なるほど。」
「先生は、それでも私の事を好きでいてくれるのですか?私は、先生にご迷惑を掛けたくないです…。」
そこで漸く、私の言葉は途切れた。
先生は、少し考え事をしている様で天井を見つめて目を閉じた。
うーん。とひとつ呟いた。
私は、今更になって恥ずかしさでいっぱいであった。
こんなに自分の気持ちを話した事は、過去に無かったのだ。
ましてや、こういった恋愛事は慣れていない。
先生に上手く自分の想いが伝わったのかが不安だった。
私は言葉選びがあまり上手な方ではないからだ。
「好き同士であれ、付き合うとは限らない訳だと私は思う。私は、君とはもう少し仲良くなりたいがね。」
「勿論、私も仲良くして頂けるのは嬉しい事です。」
「ふふ、そう言われると嬉しいものだね。」
先生は少し照れた様子で、頭を掻く。何かを思いついた様子で、先生は私を見る。
「じゃあこの案はどうかね?きちんとお付き合いを始めるのは、君が学生を終えてからで構わない。私は待つのは得意な方だからね。その間に君に別の好きな人が現れても、私は何も文句は言わない。それはご縁というものだからね。君が学生を終えた時、それでも互いの気持ちが変わらなければ、そちらのご両親へお付き合いのご挨拶に伺おう。…これはどうだい?」
「では、それでお願いしてもよいですか…?先生をお待たせしてしまうのは、心苦しい限りですが。私が学生を終える迄の間、先生に別の好きな方が現れても、私は文句は言いません。」
私は先生が出してくれた案に、乗ろうと思った。
お付き合いをする、という事を私がもう少し大人になって理解できる様になったら、私は先生のお傍に居られるようになる。
学生の身分では、先生にも悪い噂が立ってしまう可能性だってある。
そのリスクを回避する為にも、と私は思ったのだ。
「つまり、私達の仲は今迄通り変わらない。放課後に君が我が家に立ち寄るのも、一緒に河川敷を散歩するのもこれまで通りだ。」
「はい。私もこのまま先生と仲良く、思い出を作っていければと思っています。」
そう言うと、互いに笑いあった。
先生は、断られたらどうしようかと思ったと笑っていた。
私は、先生とこれまで通り一緒に居られる事が嬉しくて笑った。
一通り笑い終わると、先生は一つ提案をしてきた。
「ひとつ、私から君に我儘を言おう。下の名前で、呼び合う事に抵抗はあるかい?」
「いいえ、大丈夫です。」
私は先生の些細な我儘を許容できた。
名前を呼ぶのは少し照れ臭いけれど、より親密になった気持ちがしてなんだか嬉しかった。
「良かった。これからは、下の名前で呼ばせて貰うよ、智恵子(ちえこ)ちゃん。」
「分かりました、卓(すぐる)先生。」
そう言うと先生は、また笑った。私もつられて笑ってしまう。
今日は何故だか二人して、笑い上戸だ。
「はは、やはり先生は取れないか。」
「だって、先生は先生ですもの。」
伝えたい想いや気持ちを全て言えた私は、心が青空の様に澄み切った色になっていくのを感じた。
それから私達は、これまでと同じ関係性のままである。
智恵子は変わらずに我が家へと訪れるし、散歩もいつも通りだった。
変化は、名前の呼び方くらいだろうか。
紫陽花が咲けば紫陽花を見に行き、紅葉の時期になれば紅葉を二人で見に行った。
そうして少しずつ、思い出のページが増えてゆく。
どのページも愛おしく、その時の風景や感情が思い出せる程だった。
「卓先生、郵便受けに手紙がありましたよ。」
「悪いね、ありがとう。」
今日も変わらず我が家へと訪れた智恵子は、何通かの手紙を私に手渡す。
どうやら、ファンレターというものらしい。
この私もついに、そういった手紙を貰える様になったとは…としみじみ思う。
「そういえば、智恵子ちゃんからはファンレター貰った事ないなあ。」
「もう、何言ってるんですか!ほら、原稿原稿!」
少し茶化す様に智恵子に言うと、顔を真っ赤にして恥ずかしがっていた。
これだから先生は…とぶつぶつ言っていたが、そこまで私は追及をしなかった。
いつもの様に、鞄から文芸誌を取り出し目を通し始めた智恵子を見て、私も原稿へと向かい合った。
原稿用紙を走るペンの音と、文芸誌のページを捲る音、時計の秒針の音、その三つがこの部屋を支配していた。
連載というのは難しい。
編集の意向によって、物語を変えなくてはいけない事も多々ある。
だが、文字書きとして生きている以上、これは避けられない事だった。
編集者が居なければ、物語が世に出る事も無くなってしまうので、どうにかこうにかして折り合いを自分の中でつけなければならない。
そうして、互いに会話をする事も無く私達は目の前の事を黙々と進めていた。
「卓先生、そろそろお茶飲みしましょう。」
「それはいいね。最近、新しく緑茶の茶葉を買ったのだよ。」
「わあ、きっと美味しいですね。」
「どうだろうね、美味しいと良いけど。」
そう言いながら二人して台所まで会話をしながら行き、やかんで湯を沸かす。
湯が沸く迄の間は、世間話をしたりする。
「今度の散歩では、何処へ行こうかね。」
「そういえば、商店街に新しく和菓子屋さんが出来ましたよ。行きました?」
「ああ、目の前を通り過ぎただけだね…。美味しいのかい?」
「それはもう、お茶にぴったりという感じですよ。」
智恵子はその和菓子屋で買った菓子の事を思い出して、にこにことしていた。
ああ、こういう所が好きなんだなあと今の会話とは全然別の事を心の中で呟いた。
智恵子には笑顔が似合う。
「それじゃあ、今度の散歩はその和菓子屋に立ち寄る事にしよう。」
「楽しみです。」
湯が沸き、新しい茶葉の袋を開ける。爽やかな香りが一気に広がる。
これは美味しいお茶に違いない。
二つの湯飲みに淹れられた緑茶は、薄黄緑色に輝いていた。
「さあさ、客間へ行こう。確か、茶菓子があった筈だ。」
「あれ、珍しいですね。先生が買ったのですか?」
「いや、編集者が持ってきてくれてね。」
確かこの辺り…と戸棚を探り、目当ての茶菓子を見付ける。
どうやら、煎餅の様だ。その箱をちゃぶ台に置き、二人で向かい合って座る。
緑茶を飲む。確かに、美味しい。煎餅もなかなか美味しかった。
「この組み合わせは、なかなか美味しいものだ。」
「本当ですね。」
目が合う。私達は自然に笑っていた。
先生の言った言葉の意味を、そのまま受け取っていいのか私は迷っていた。
『原稿に集中したいから、少し一人にしてくれないか。』
私は寂しさはあったが、先生の一ファンでもあるので原稿の邪魔にはなりたく無かった。これまで親しくして頂いていたけれど、それは私が文芸好きだからだったかもしれない。
『先週は君を傷付ける様な物言いをしてしまい、申し訳無かった。仕事がひと段落したので、またいつでも此方へ立ち寄っておくれ。私は君の来訪を、心待ちにしている。』
此処迄書き終えて、ペンが止まった。これで伝わるだろうか。
君は私に呆れているかもしれないなあ、と言われた訳でも無い心配をした。
先生からの手紙が届いたのは、昨日の事だった。
三回程読み返した手紙は、引き出しにしまった。
先生は気を遣って、こういった手紙を下さったけれど…。
『迷惑じゃないか』という疑念が、頭から未だ離れなかった。
勇気を振り絞り、先生の家までやってきた。引き戸を開けるかどうか、躊躇ってしまった。
先々週迄は、この引き戸を開けるのに、躊躇いなど無かった。
深呼吸をして、ゆっくり引き戸を開ける。
「ごめんください、先生いますか?」
この決まり文句も少し声が震える。遠くの方から、はーいと声が聞こえ足音が近づいて来る。
「いらっしゃい。」
久々に会った先生は、いつも通り優しく迎えてくれた。
いつも通り居間に通される。
「先生、これどうぞ。」
菓子折り箱を手渡した。先生は、少し申し訳無さそうな顔をした。
「気を遣わせてすまないね、一緒に食べようか。」
支度をしに台所へ行く先生の後ろ姿は、何も変わっていない。
座布団に座り、見回すと日めくりカレンダーが、先週の月曜日のままだった。
「先生、ご迷惑でしたら言って下さって良いのに。」
君は申し訳無さそうに、ぽつりと呟いた。
「ああ、違うんだよ。締切が近い原稿が、重なってしまってね。君が嫌な訳じゃあないんだよ。傷付けてしまって、本当に悪かった。」
私が頭を下げたら、君は慌てた。
「せ、先生、そんな。頭を上げて下さい。」
漸く頭を上げた私に、君は本当に申し訳無さそうな顔をして目に涙を浮かべていた。
「先生が親切にして下さるのが、どこか当たり前に思う様になってしまっていました…。私はそれに甘えてしまいました。」
きつく握った拳に、涙がぽつりと落ちた。
「先生にとっては、私はファンの内の一人だというのに。」
「そんな事ないよ、君は特別だ。大勢の内の一人なんて事はない。」
不安そうに顔を上げた君の目は、涙でうるりと光る。
「でも…。」
君はポツリと呟くと、口を閉ざしてしまった。もうそろそろ潮時か。
この関係性を壊してしまうかもしれない言葉を口にする決意が、やっとついた。
「私は君が好きなんだ。」
「最初は兄の様に思っていましたが、徐々に変わっていきました。私は…、その、殿方として先生の事を好いています。」
君はつっかえながらも、何とか最後迄言い終えた様だった。
頬が紅潮し、とても緊張している面持ちだった。
「そうか、有難う。有難うと言うのもおかしいか。」
私は独り言の様に言った。
「先生、少しだけ考える時間を頂けませんか?勿論、先生の事は好いています。でも、少しだけ考えたい事があるのです。」
君は申し訳なさそうにそう言った。
「大丈夫だよ、そんなせっつく様な真似はしないから。君の中で結論が出たら、その時は教えておくれ。」
私がそう言うと君は、少しほっとした様だ。
「ただいま…。」
あの後、どこかぼんやりしたまま、先生の家を後にし自宅へ着いた。
「お帰りなさい、智恵子(ちえこ)。」
母の声で、漸く現実世界に戻る。
「何かあったの?」
ぼんやりしていた私に、母が気が付かない訳は無かった。
「大丈夫。自分で決める事だから。」
母は少し不思議そうな顔で、炊事へと戻った。
自室に戻り、制服から部屋着へと着替えた。
机の引き出しの一番下に気に入った文芸誌がしまってある。その中から、一冊を取り出す。
私が無理を言って先生にサインを書いて貰ったものだ。
先生が少し照れ臭そうに笑っていたのを思い出す。
もしかしたら、私はあの時から、先生が好きだったのかもしれない。
私は次の日に、また先生の家に立ち寄る事を決めた。
あの場では、すぐに答えられなかったけれど、私は先生がとても好きだと気が付いた。
出会いはそろそろ春になろうかという頃合いで、その時は私は先生の作品のファンだった。
作品を文芸誌で見付け、こんな素晴らしい文章を書けるなんて、どのような人なのだろうと毎日思っていたのを思い出す。
実際に先生と会ったのは、先生の家の玄関先だった。
母親から、この近くに小説家が住んでいるという情報を得た私は、ご近所の人に聞いて先生の家に辿り着いたのだ。
先生は少し驚いた様子であったけれど、私を無下に扱う事もなく持って行った文芸誌の表紙に、サインまで書いて頂いた。
あの時の先生の筆の運びは、今でも思い出せる程だった。
私は先生に自分の気持ちを、きちんと伝えなくてはならないと強く思った。
しょっちゅう先生の家にお邪魔する様になってからは、兄の様な感情を持ち始めたがそれはやがて、自分の中で特別な人という感情へと移り変わって行った。
近所の桜を見に行き、河川敷で散歩をし、先生が原稿をしている傍で本を読む。
どれも私には大切な思い出であり、これからもこの様なささやかな幸せをひとつひとつ見付けていきたいと思った。
「ごめんください、先生いますかー?」
いつも通り、引き戸を開けて奥の部屋に居るであろう、先生に呼び掛ける。
今日はどんよりとした曇りだ。帰り道、道端には紫陽花が幾つか咲いていた。
「はいはい、ちょっとお待ちよ。」
奥の部屋からはガサガサと、紙類(恐らく原稿だ)をとりあえず片付けている音が聞こえた。
私に対して、そんなに気を遣わなくても構わないのにと思ったが、それは先生が決める事だから私がどうこう言える事では無い。
「お待たせ、どうぞおあがり。」
「先生、どれだけ散らかしていたのですか…。」
「まあまあ、たまにはこういう日もあるのだよ。」
こうして自然と会話が出来たのに、自分では少し驚いていた。
昨日は、いつも通りに話せるか、あんなに不安だったというのにそれが嘘の様だった。
私はいつも通り、先生が原稿を書いている部屋へと通される。
そこでは、毎日新作の原稿が少しずつ出来上がって行く。
先生のファンである私には、読みたい衝動に駆られるが毎月きちんと文芸誌を買って読む事にしている。
そうする事で、少しでも先生の助けになればと思うのであった。
「先生、今日は昨日のお返事に来ました。」
「そうかい。では、聞こうか。」
いつもの背中合わせの状態では無く、先生は私の方を向いて座り直した。
きちんと聞こうという態度が行動に表れていて、私も背筋を伸ばして正座をする。
お互いに少し緊張してはいたが嫌な緊張感では無かった。
「私は、先生の事が好きです。」
「うん。」
思っていたよりもするりと言葉が出た。自分でも驚く程だった。
まるで決められていた台詞かの様だ。
「でも、お付き合いをするというのが、私にはまだよく分からないのです。」
「そうか。」
先生の返事は短いものだったが、話を急かしたり腰を折る様な事はしなかった。
先生はそういう事をしない人だと、私は知っていたからこうして時間を掛けてゆっくりだが話せるのだ。
「先生、編集社の方がお見えです。」
私は原稿を直している途中だった。
「すまんが、客間に通して、お茶を出してくれないか。」
ペンを走らせながら、私はそう返した。もう少しで終わりそうだ。
「分かりました。そのようにして、暫く私がお話ししてますね。」
君は察しがよくて助かる、と心の中で思った。
「先生は、どの天気が好きですか?」
じっと机に向かって物書きをしている私の背中に、君は語りかける。
「曇りだね。」
君が私の背中に、『くもり』となぞった。
「なんとなくそんな気がしました。」
君は嬉しそうに笑い、背中合わせに座り直した。
「先生と一緒の傘に入れるから、私は雨が好きです。」
君が好きだと言っていた、雨の日だ。
私は用事があり、外出せねばならなかった。君を送り、目的地へ向かう事としよう。黒蝙蝠(くろこうもり)の様な傘を広げると、私の左側に君が滑り込む。
「雨の日も良いものですよね?」
と、君は嬉しそうに笑う。
「そうだなあ、確かに悪くない。」
そう言いながら、一歩踏み出した。
今日は君が来なかった。
珍しい事もあるものだと、壁に掛けたカレンダーを見やる。
『来週から試験があるので、再来週にお邪魔しますね。』
と君が言っていたのを思い出した。そうか、今週は君は来ないのか。
その間に私は、仕事を片付けておくとしよう。私は再びペンを取り、原稿用紙と向かい合った。
雨音がする。試験勉強は、憂鬱極まりなかった。
『原稿が進まないなあ。』
とボヤく先生の声を思い出した。試験期間が終われば、またお邪魔することになっている。今日はまだ火曜日、週の初めの方である。
なんだか調子が狂うなと思いながら、教科書に再び目を落として勉強を進める。雨は、まだ止まない。
今日は晴れた。気持ちよい青空が広がり、ぷかりと雲が浮いている。
連載原稿が、上がった私は今日は少し腑抜けている。勿論、他の原稿も、進めなくてはいけないが。畳の上に、ごろりと横になって、空を見始めたらどうにも動くのが億劫になってしまった。
寝返りを打つと、ざらりと畳の表面が音を立てた。
試験も半ばを過ぎた所である。
苦手な数学の試験を終えたので、気持ちが楽になった。明日も試験はあるのだが、得意な語学系なので試験勉強も順調に進んでいた。壁に掛かっている、カレンダーを見やる。
今日は木曜日だ。先生が好きな太陽が薄雲に隠された日和である。さて、と再び彼女は勉強を再開した。
窓に雨粒が当たる、ぽつぽつと音が聞こえる。
次第に雨足が強まり、雨の向こう側が、霧で見えなくなった。予想以上に強い雨だ。
この時間には、もう君は帰り着いたかと十七時を示す時計を見やる。
窓にぶつかる雨粒が流れ落ち、窓枠に溜まっていく。
今日は金曜日だ。来週の月曜には、君がやって来る。
玄関の引き戸が、開いた。
「ごめん下さい。先生、いますか?」
君の元気な声が聞こえ、ペンを置く。久し振りに声を聞いたら、新鮮な気持ちだ。
「久し振りだね、いらっしゃい。」
君は笑って「少しは寂しかったですか?」
と冗談めいて言った。
「そうだねえ、君と同じ位には寂しかったさ。」
と私は答えた。
私は君と河川敷を並んで、特に目的も無く散歩をしていた。
原稿が詰まった私が、君を散歩へと連れ出したのだ。
「緑が綺麗ですね、先生。」
河川敷沿いの桜の木は、若い葉を揺らして木漏れ日がその度にきらりと輝いている。
「そうだねえ。初夏の様だ。」
木漏れ日が映る君の横顔は、とても綺麗だった。
「君は、毎日此処へ来ていて良いのかい?」
疑問に思った事を問い掛けた。彼女だって、友達付き合いや家の用事だってあるだろう。君はお茶をゆっくり飲みながら、小説を読んでいた視線を上げる。
「ちゃんと友達もいるし、家の用事だってこなせているから。」
心配しないで、と君はにこりと笑った。
締切間近となった原稿を進めながら、君に言った言葉を思い出す。
『原稿に集中したいから、暫く一人にしてくれないか?』
その言葉を聞いた君は少し、落ち込んだ風だった。君との距離が近付き過ぎてしまったと感じていて、私は怖くなったのだ。
非常に情けない話だが、私は君を好きになるのが怖かった。
例えばの話だ。君が私を好いていたとしてだ。私は人に比べれば金を持っていないし、不健康な生活をしている。君より先に、私は死ぬだろう。君に残せるものは、僅かな金と大量の原稿しかない。原稿は囲炉裏にでも焚べてしまえばいい。暖かさの、足しになるだろう。それでもよければ、一緒にならないか。
言葉とはこんなに難しいものだったか。文芸誌に連載を持つ身であっても、他人に話して物事を伝える事が私は酷く苦手であった。その為、手紙をまめに書く。しかし、君に宛てた手紙では、何度もペンが止まる。もっと良い言い回しがあるのではないか、君にきちんと伝えられるかという不安に苛まれている。
「先生、早くしないと桜が散ってしまいます。」
君は玄関口から、大きな声で私に呼び掛けていた。
「とりあえず、上がりなさい。」
私は身支度を整えながら、返事をする。
「はーい!」
元気な返事と共に聞こえる足音。どうやら客間に入ったようだ。襟を整え、羽織りを持ち客間に行く。
「よし、行こうか。」
「凄い人出ですね…!」
君は桜よりも先に人の多さに驚いていた。桜の名所の為、人出の多さは納得のいく所であった。人混みの真上に、被さるように桜の枝が伸びている。
「さて、君、手を貸してごらん。」
君は不思議そうに手を差し出す。私はその手を握り歩き出す。君は恥ずかしそうに、前髪を整えた。
君は窓辺で残念そうに、河川敷を見やる。
「先生、桜が散ってしまいましたね。」
私は原稿を確認していた視線を、窓辺へ送る。
「しかし、新緑も良いとは思わないかね。この時期の緑は、優しい色をしているだろう?」
君は小さい声で、少し照れた様子で呟いた。
「先生と見る物は、どれも綺麗に見えます。」
一気に秋めいてきた、今日この頃。
私は原稿を書いている。
大体いつもこの文机に向かい、ペンを走らせている。
時折、資料の本を読み、ページに栞を挟みその場へと置いておく。
そうして私の部屋は、文字に溢れかえってしまう。
「卓さん、何かお片付けしましょうか?」
「ん、悪いね、これ以外は適当に本棚にしまって貰えるかい?」
「分かりました。後で、お茶持ってきますね。」
「ありがとう。」
私が原稿に追われていると、君はこうして文字に溢れかえった部屋を少しずつ整えてくれる。
適当にしまって良いと伝えても、君はきちんと元の場所に本をしまう。
いつの間に覚えたのだろう。
なんだかんだで、長い付き合いだから自然と覚えてしまったのだろうか。
君が本棚に本をしまっていく音を聞きながら、私は原稿を進めていく。
今日中には、なんとかなりそうだと目処が立ってきた。
「お茶持ってきますね。」
「悪いね、助かるよ。」
「良いんです、私が好きでしていることですから。」
そう言って君は台所へと行った。
色々と細やかに気遣いが出来る君を、私は尊敬している。
私には、そういったことが中々出来ない。
君はすぐに戻ってきて、にこりと笑った。
「卓さん、休憩も大事ですよ。」
「そうだね。君の言うとおりだ。」
小さい折り畳み机を引っ張り出し、そこに急須と湯飲みが乗った盆を置く。
「この茶葉美味しいので、どんどん減りますね。」
「本当だ。また買いに行かないといけないなあ。」
「明日辺り、お散歩しながら行きましょう。」
「そうだね。」
湯飲みに注がれた緑茶は、綺麗な薄緑に輝く。
私は湯飲みに口をつけて漸く、ほっとした心持ちになれた。
窓辺に吊るした風鈴は涼し気な音を立てている。その向こうには、入道雲が見える。何もしたくないなあ。ぼんやりと頬杖をついて、メモ帳を何ページか捲る。好きなフレーズや、使えそうな表現を自分なりに纏めたものだ。私の宝物と言っても良いだろう。作業机に乱雑に置かれた資料から、一枚の紙を見つけ出した。
「花火大会…。」
去年のじゃないよなあと、訝し気にチラシの内容を確認する。どうやら今夜この近くで行われるようだった。こんな事なら、君を誘っておけば良かった。
「ごめんくださーい。先生、いますか?」
がらりと引き戸が開く音がして、玄関から君の声がした。
「はーい。上がっておいで。」
「はーい。」
君はいつもの様に、迷わず書斎へやってきた。
「先生、花火大会行きましょうよ。」
どうやら先程のチラシを、君も見ていたようだ。
「うん、良いね。誘いに行こうかと思っていたところだよ。」
「良かったです。擦れ違いにならなくて。」
君は浴衣姿で、何だか嬉しそうだ。浴衣は紺地に朝顔の模様のものだった。纏めた髪の毛についているかんざしは、涼しげな青色をしている。
「似合っているね、いい色だ。」
「有難う御座います。」
家からでも見られるが、折角だから出店もある場所へ行ってみようかと思った。
「出店でも冷やかして、それから花火を見ようか。」
「いいですね。私、りんご飴食べたいです。」
君はそう言って早く行こうと私の手を引っ張る。
「はいはい、じゃあ行こうかね。」
私もとうとう重い腰を上げて、玄関へと向かう。せっかちな君はもう下駄を履き終えていた。
「さて、行こうか。」
「はい!」
二人で下駄をカラコロと鳴らしながら、河川敷へと向かう事にした。
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