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「お付き合いをする…となると、先生は色々と不都合じゃありませんか?私みたいな学生相手だと、先生が悪い様に言われてしまうのではないかと、心配で…。」
「なるほど。」
「先生は、それでも私の事を好きでいてくれるのですか?私は、先生にご迷惑を掛けたくないです…。」
そこで漸く、私の言葉は途切れた。
先生は、少し考え事をしている様で天井を見つめて目を閉じた。
うーん。とひとつ呟いた。
私は、今更になって恥ずかしさでいっぱいであった。
こんなに自分の気持ちを話した事は、過去に無かったのだ。
ましてや、こういった恋愛事は慣れていない。
先生に上手く自分の想いが伝わったのかが不安だった。
私は言葉選びがあまり上手な方ではないからだ。
「好き同士であれ、付き合うとは限らない訳だと私は思う。私は、君とはもう少し仲良くなりたいがね。」
「勿論、私も仲良くして頂けるのは嬉しい事です。」
「ふふ、そう言われると嬉しいものだね。」
先生は少し照れた様子で、頭を掻く。何かを思いついた様子で、先生は私を見る。
「じゃあこの案はどうかね?きちんとお付き合いを始めるのは、君が学生を終えてからで構わない。私は待つのは得意な方だからね。その間に君に別の好きな人が現れても、私は何も文句は言わない。それはご縁というものだからね。君が学生を終えた時、それでも互いの気持ちが変わらなければ、そちらのご両親へお付き合いのご挨拶に伺おう。…これはどうだい?」
「では、それでお願いしてもよいですか…?先生をお待たせしてしまうのは、心苦しい限りですが。私が学生を終える迄の間、先生に別の好きな方が現れても、私は文句は言いません。」
私は先生が出してくれた案に、乗ろうと思った。
お付き合いをする、という事を私がもう少し大人になって理解できる様になったら、私は先生のお傍に居られるようになる。
学生の身分では、先生にも悪い噂が立ってしまう可能性だってある。
そのリスクを回避する為にも、と私は思ったのだ。
「つまり、私達の仲は今迄通り変わらない。放課後に君が我が家に立ち寄るのも、一緒に河川敷を散歩するのもこれまで通りだ。」
「はい。私もこのまま先生と仲良く、思い出を作っていければと思っています。」
そう言うと、互いに笑いあった。
先生は、断られたらどうしようかと思ったと笑っていた。
私は、先生とこれまで通り一緒に居られる事が嬉しくて笑った。
一通り笑い終わると、先生は一つ提案をしてきた。
「ひとつ、私から君に我儘を言おう。下の名前で、呼び合う事に抵抗はあるかい?」
「いいえ、大丈夫です。」
私は先生の些細な我儘を許容できた。
名前を呼ぶのは少し照れ臭いけれど、より親密になった気持ちがしてなんだか嬉しかった。
「良かった。これからは、下の名前で呼ばせて貰うよ、智恵子(ちえこ)ちゃん。」
「分かりました、卓(すぐる)先生。」
そう言うと先生は、また笑った。私もつられて笑ってしまう。
今日は何故だか二人して、笑い上戸だ。
「はは、やはり先生は取れないか。」
「だって、先生は先生ですもの。」
伝えたい想いや気持ちを全て言えた私は、心が青空の様に澄み切った色になっていくのを感じた。
それから私達は、これまでと同じ関係性のままである。
智恵子は変わらずに我が家へと訪れるし、散歩もいつも通りだった。
変化は、名前の呼び方くらいだろうか。
紫陽花が咲けば紫陽花を見に行き、紅葉の時期になれば紅葉を二人で見に行った。
そうして少しずつ、思い出のページが増えてゆく。
どのページも愛おしく、その時の風景や感情が思い出せる程だった。
「卓先生、郵便受けに手紙がありましたよ。」
「悪いね、ありがとう。」
今日も変わらず我が家へと訪れた智恵子は、何通かの手紙を私に手渡す。
どうやら、ファンレターというものらしい。
この私もついに、そういった手紙を貰える様になったとは…としみじみ思う。
「そういえば、智恵子ちゃんからはファンレター貰った事ないなあ。」
「もう、何言ってるんですか!ほら、原稿原稿!」
少し茶化す様に智恵子に言うと、顔を真っ赤にして恥ずかしがっていた。
これだから先生は…とぶつぶつ言っていたが、そこまで私は追及をしなかった。
いつもの様に、鞄から文芸誌を取り出し目を通し始めた智恵子を見て、私も原稿へと向かい合った。
原稿用紙を走るペンの音と、文芸誌のページを捲る音、時計の秒針の音、その三つがこの部屋を支配していた。
連載というのは難しい。
編集の意向によって、物語を変えなくてはいけない事も多々ある。
だが、文字書きとして生きている以上、これは避けられない事だった。
編集者が居なければ、物語が世に出る事も無くなってしまうので、どうにかこうにかして折り合いを自分の中でつけなければならない。
そうして、互いに会話をする事も無く私達は目の前の事を黙々と進めていた。
「卓先生、そろそろお茶飲みしましょう。」
「それはいいね。最近、新しく緑茶の茶葉を買ったのだよ。」
「わあ、きっと美味しいですね。」
「どうだろうね、美味しいと良いけど。」
そう言いながら二人して台所まで会話をしながら行き、やかんで湯を沸かす。
湯が沸く迄の間は、世間話をしたりする。
「今度の散歩では、何処へ行こうかね。」
「そういえば、商店街に新しく和菓子屋さんが出来ましたよ。行きました?」
「ああ、目の前を通り過ぎただけだね…。美味しいのかい?」
「それはもう、お茶にぴったりという感じですよ。」
智恵子はその和菓子屋で買った菓子の事を思い出して、にこにことしていた。
ああ、こういう所が好きなんだなあと今の会話とは全然別の事を心の中で呟いた。
智恵子には笑顔が似合う。
「それじゃあ、今度の散歩はその和菓子屋に立ち寄る事にしよう。」
「楽しみです。」
湯が沸き、新しい茶葉の袋を開ける。爽やかな香りが一気に広がる。
これは美味しいお茶に違いない。
二つの湯飲みに淹れられた緑茶は、薄黄緑色に輝いていた。
「さあさ、客間へ行こう。確か、茶菓子があった筈だ。」
「あれ、珍しいですね。先生が買ったのですか?」
「いや、編集者が持ってきてくれてね。」
確かこの辺り…と戸棚を探り、目当ての茶菓子を見付ける。
どうやら、煎餅の様だ。その箱をちゃぶ台に置き、二人で向かい合って座る。
緑茶を飲む。確かに、美味しい。煎餅もなかなか美味しかった。
「この組み合わせは、なかなか美味しいものだ。」
「本当ですね。」
目が合う。私達は自然に笑っていた。
先生の言った言葉の意味を、そのまま受け取っていいのか私は迷っていた。
『原稿に集中したいから、少し一人にしてくれないか。』
私は寂しさはあったが、先生の一ファンでもあるので原稿の邪魔にはなりたく無かった。これまで親しくして頂いていたけれど、それは私が文芸好きだからだったかもしれない。
『先週は君を傷付ける様な物言いをしてしまい、申し訳無かった。仕事がひと段落したので、またいつでも此方へ立ち寄っておくれ。私は君の来訪を、心待ちにしている。』
此処迄書き終えて、ペンが止まった。これで伝わるだろうか。
君は私に呆れているかもしれないなあ、と言われた訳でも無い心配をした。
先生からの手紙が届いたのは、昨日の事だった。
三回程読み返した手紙は、引き出しにしまった。
先生は気を遣って、こういった手紙を下さったけれど…。
『迷惑じゃないか』という疑念が、頭から未だ離れなかった。
勇気を振り絞り、先生の家までやってきた。引き戸を開けるかどうか、躊躇ってしまった。
先々週迄は、この引き戸を開けるのに、躊躇いなど無かった。
深呼吸をして、ゆっくり引き戸を開ける。
「ごめんください、先生いますか?」
この決まり文句も少し声が震える。遠くの方から、はーいと声が聞こえ足音が近づいて来る。
「いらっしゃい。」
久々に会った先生は、いつも通り優しく迎えてくれた。
いつも通り居間に通される。
「先生、これどうぞ。」
菓子折り箱を手渡した。先生は、少し申し訳無さそうな顔をした。
「気を遣わせてすまないね、一緒に食べようか。」
支度をしに台所へ行く先生の後ろ姿は、何も変わっていない。
座布団に座り、見回すと日めくりカレンダーが、先週の月曜日のままだった。
「先生、ご迷惑でしたら言って下さって良いのに。」
君は申し訳無さそうに、ぽつりと呟いた。
「ああ、違うんだよ。締切が近い原稿が、重なってしまってね。君が嫌な訳じゃあないんだよ。傷付けてしまって、本当に悪かった。」
私が頭を下げたら、君は慌てた。
「せ、先生、そんな。頭を上げて下さい。」
漸く頭を上げた私に、君は本当に申し訳無さそうな顔をして目に涙を浮かべていた。
「先生が親切にして下さるのが、どこか当たり前に思う様になってしまっていました…。私はそれに甘えてしまいました。」
きつく握った拳に、涙がぽつりと落ちた。
「先生にとっては、私はファンの内の一人だというのに。」
「そんな事ないよ、君は特別だ。大勢の内の一人なんて事はない。」
不安そうに顔を上げた君の目は、涙でうるりと光る。
「でも…。」
君はポツリと呟くと、口を閉ざしてしまった。もうそろそろ潮時か。
この関係性を壊してしまうかもしれない言葉を口にする決意が、やっとついた。
「私は君が好きなんだ。」
「最初は兄の様に思っていましたが、徐々に変わっていきました。私は…、その、殿方として先生の事を好いています。」
君はつっかえながらも、何とか最後迄言い終えた様だった。
頬が紅潮し、とても緊張している面持ちだった。
「そうか、有難う。有難うと言うのもおかしいか。」
私は独り言の様に言った。
「先生、少しだけ考える時間を頂けませんか?勿論、先生の事は好いています。でも、少しだけ考えたい事があるのです。」
君は申し訳なさそうにそう言った。
「大丈夫だよ、そんなせっつく様な真似はしないから。君の中で結論が出たら、その時は教えておくれ。」
私がそう言うと君は、少しほっとした様だ。
「ただいま…。」
あの後、どこかぼんやりしたまま、先生の家を後にし自宅へ着いた。
「お帰りなさい、智恵子(ちえこ)。」
母の声で、漸く現実世界に戻る。
「何かあったの?」
ぼんやりしていた私に、母が気が付かない訳は無かった。
「大丈夫。自分で決める事だから。」
母は少し不思議そうな顔で、炊事へと戻った。
自室に戻り、制服から部屋着へと着替えた。
机の引き出しの一番下に気に入った文芸誌がしまってある。その中から、一冊を取り出す。
私が無理を言って先生にサインを書いて貰ったものだ。
先生が少し照れ臭そうに笑っていたのを思い出す。
もしかしたら、私はあの時から、先生が好きだったのかもしれない。
私は次の日に、また先生の家に立ち寄る事を決めた。
あの場では、すぐに答えられなかったけれど、私は先生がとても好きだと気が付いた。
出会いはそろそろ春になろうかという頃合いで、その時は私は先生の作品のファンだった。
作品を文芸誌で見付け、こんな素晴らしい文章を書けるなんて、どのような人なのだろうと毎日思っていたのを思い出す。
実際に先生と会ったのは、先生の家の玄関先だった。
母親から、この近くに小説家が住んでいるという情報を得た私は、ご近所の人に聞いて先生の家に辿り着いたのだ。
先生は少し驚いた様子であったけれど、私を無下に扱う事もなく持って行った文芸誌の表紙に、サインまで書いて頂いた。
あの時の先生の筆の運びは、今でも思い出せる程だった。
私は先生に自分の気持ちを、きちんと伝えなくてはならないと強く思った。
しょっちゅう先生の家にお邪魔する様になってからは、兄の様な感情を持ち始めたがそれはやがて、自分の中で特別な人という感情へと移り変わって行った。
近所の桜を見に行き、河川敷で散歩をし、先生が原稿をしている傍で本を読む。
どれも私には大切な思い出であり、これからもこの様なささやかな幸せをひとつひとつ見付けていきたいと思った。
「ごめんください、先生いますかー?」
いつも通り、引き戸を開けて奥の部屋に居るであろう、先生に呼び掛ける。
今日はどんよりとした曇りだ。帰り道、道端には紫陽花が幾つか咲いていた。
「はいはい、ちょっとお待ちよ。」
奥の部屋からはガサガサと、紙類(恐らく原稿だ)をとりあえず片付けている音が聞こえた。
私に対して、そんなに気を遣わなくても構わないのにと思ったが、それは先生が決める事だから私がどうこう言える事では無い。
「お待たせ、どうぞおあがり。」
「先生、どれだけ散らかしていたのですか…。」
「まあまあ、たまにはこういう日もあるのだよ。」
こうして自然と会話が出来たのに、自分では少し驚いていた。
昨日は、いつも通りに話せるか、あんなに不安だったというのにそれが嘘の様だった。
私はいつも通り、先生が原稿を書いている部屋へと通される。
そこでは、毎日新作の原稿が少しずつ出来上がって行く。
先生のファンである私には、読みたい衝動に駆られるが毎月きちんと文芸誌を買って読む事にしている。
そうする事で、少しでも先生の助けになればと思うのであった。
「先生、今日は昨日のお返事に来ました。」
「そうかい。では、聞こうか。」
いつもの背中合わせの状態では無く、先生は私の方を向いて座り直した。
きちんと聞こうという態度が行動に表れていて、私も背筋を伸ばして正座をする。
お互いに少し緊張してはいたが嫌な緊張感では無かった。
「私は、先生の事が好きです。」
「うん。」
思っていたよりもするりと言葉が出た。自分でも驚く程だった。
まるで決められていた台詞かの様だ。
「でも、お付き合いをするというのが、私にはまだよく分からないのです。」
「そうか。」
先生の返事は短いものだったが、話を急かしたり腰を折る様な事はしなかった。
先生はそういう事をしない人だと、私は知っていたからこうして時間を掛けてゆっくりだが話せるのだ。
「先生、編集社の方がお見えです。」
私は原稿を直している途中だった。
「すまんが、客間に通して、お茶を出してくれないか。」
ペンを走らせながら、私はそう返した。もう少しで終わりそうだ。
「分かりました。そのようにして、暫く私がお話ししてますね。」
君は察しがよくて助かる、と心の中で思った。
「先生は、どの天気が好きですか?」
じっと机に向かって物書きをしている私の背中に、君は語りかける。
「曇りだね。」
君が私の背中に、『くもり』となぞった。
「なんとなくそんな気がしました。」
君は嬉しそうに笑い、背中合わせに座り直した。
「先生と一緒の傘に入れるから、私は雨が好きです。」
君が好きだと言っていた、雨の日だ。
私は用事があり、外出せねばならなかった。君を送り、目的地へ向かう事としよう。黒蝙蝠(くろこうもり)の様な傘を広げると、私の左側に君が滑り込む。
「雨の日も良いものですよね?」
と、君は嬉しそうに笑う。
「そうだなあ、確かに悪くない。」
そう言いながら、一歩踏み出した。
今日は君が来なかった。
珍しい事もあるものだと、壁に掛けたカレンダーを見やる。
『来週から試験があるので、再来週にお邪魔しますね。』
と君が言っていたのを思い出した。そうか、今週は君は来ないのか。
その間に私は、仕事を片付けておくとしよう。私は再びペンを取り、原稿用紙と向かい合った。
雨音がする。試験勉強は、憂鬱極まりなかった。
『原稿が進まないなあ。』
とボヤく先生の声を思い出した。試験期間が終われば、またお邪魔することになっている。今日はまだ火曜日、週の初めの方である。
なんだか調子が狂うなと思いながら、教科書に再び目を落として勉強を進める。雨は、まだ止まない。
今日は晴れた。気持ちよい青空が広がり、ぷかりと雲が浮いている。
連載原稿が、上がった私は今日は少し腑抜けている。勿論、他の原稿も、進めなくてはいけないが。畳の上に、ごろりと横になって、空を見始めたらどうにも動くのが億劫になってしまった。
寝返りを打つと、ざらりと畳の表面が音を立てた。
試験も半ばを過ぎた所である。
苦手な数学の試験を終えたので、気持ちが楽になった。明日も試験はあるのだが、得意な語学系なので試験勉強も順調に進んでいた。壁に掛かっている、カレンダーを見やる。
今日は木曜日だ。先生が好きな太陽が薄雲に隠された日和である。さて、と再び彼女は勉強を再開した。
窓に雨粒が当たる、ぽつぽつと音が聞こえる。
次第に雨足が強まり、雨の向こう側が、霧で見えなくなった。予想以上に強い雨だ。
この時間には、もう君は帰り着いたかと十七時を示す時計を見やる。
窓にぶつかる雨粒が流れ落ち、窓枠に溜まっていく。
今日は金曜日だ。来週の月曜には、君がやって来る。
玄関の引き戸が、開いた。
「ごめん下さい。先生、いますか?」
君の元気な声が聞こえ、ペンを置く。久し振りに声を聞いたら、新鮮な気持ちだ。
「久し振りだね、いらっしゃい。」
君は笑って「少しは寂しかったですか?」
と冗談めいて言った。
「そうだねえ、君と同じ位には寂しかったさ。」
と私は答えた。
私は君と河川敷を並んで、特に目的も無く散歩をしていた。
原稿が詰まった私が、君を散歩へと連れ出したのだ。
「緑が綺麗ですね、先生。」
河川敷沿いの桜の木は、若い葉を揺らして木漏れ日がその度にきらりと輝いている。
「そうだねえ。初夏の様だ。」
木漏れ日が映る君の横顔は、とても綺麗だった。
「君は、毎日此処へ来ていて良いのかい?」
疑問に思った事を問い掛けた。彼女だって、友達付き合いや家の用事だってあるだろう。君はお茶をゆっくり飲みながら、小説を読んでいた視線を上げる。
「ちゃんと友達もいるし、家の用事だってこなせているから。」
心配しないで、と君はにこりと笑った。
締切間近となった原稿を進めながら、君に言った言葉を思い出す。
『原稿に集中したいから、暫く一人にしてくれないか?』
その言葉を聞いた君は少し、落ち込んだ風だった。君との距離が近付き過ぎてしまったと感じていて、私は怖くなったのだ。
非常に情けない話だが、私は君を好きになるのが怖かった。
例えばの話だ。君が私を好いていたとしてだ。私は人に比べれば金を持っていないし、不健康な生活をしている。君より先に、私は死ぬだろう。君に残せるものは、僅かな金と大量の原稿しかない。原稿は囲炉裏にでも焚べてしまえばいい。暖かさの、足しになるだろう。それでもよければ、一緒にならないか。
言葉とはこんなに難しいものだったか。文芸誌に連載を持つ身であっても、他人に話して物事を伝える事が私は酷く苦手であった。その為、手紙をまめに書く。しかし、君に宛てた手紙では、何度もペンが止まる。もっと良い言い回しがあるのではないか、君にきちんと伝えられるかという不安に苛まれている。
「先生、早くしないと桜が散ってしまいます。」
君は玄関口から、大きな声で私に呼び掛けていた。
「とりあえず、上がりなさい。」
私は身支度を整えながら、返事をする。
「はーい!」
元気な返事と共に聞こえる足音。どうやら客間に入ったようだ。襟を整え、羽織りを持ち客間に行く。
「よし、行こうか。」
「凄い人出ですね…!」
君は桜よりも先に人の多さに驚いていた。桜の名所の為、人出の多さは納得のいく所であった。人混みの真上に、被さるように桜の枝が伸びている。
「さて、君、手を貸してごらん。」
君は不思議そうに手を差し出す。私はその手を握り歩き出す。君は恥ずかしそうに、前髪を整えた。
君は窓辺で残念そうに、河川敷を見やる。
「先生、桜が散ってしまいましたね。」
私は原稿を確認していた視線を、窓辺へ送る。
「しかし、新緑も良いとは思わないかね。この時期の緑は、優しい色をしているだろう?」
君は小さい声で、少し照れた様子で呟いた。
「先生と見る物は、どれも綺麗に見えます。」
私は生まれながらにして野良猫であった。
最初こそ母猫や兄弟猫もいて、賑やかであったが独り立ちをしてからは孤独もいいところである。
残飯を漁り、たまに公園に来る猫好きに餌を分け与えてもらう(本来は動物に餌を与える事は禁じられているはずだ。)
それで何度か、寒さに凍える冬と緩やかな春と過酷な夏をやり過ごした。
その間幾度か試してみたが、自分の思った事が通じる人間は1人もいなかった。
種族が違うのだから当然であるが。
私は少しばかり、退屈を持て余していた。
初秋に差し掛かり、空の雲が筋状に伸びすっかり秋の空となる。
その頃に初めて、私の言葉が通じる人間が存在すると知った。
「どうしたの?ミケちゃん?」
私の毛色から推測したであろう名前を呼ばれたので、私は自分の名前を名乗った。
「私の名前はカエデ。季節の名前をとってつけたと、母に聞いたわ。」
と何度目か分からない自己紹介を試しにしてみた。
もしかしたら、通じるのではないかと一縷の望みを掛けて。
「僕の名前は、タケル。父さんがタケフミだから漢字をひとつ貰ったと聞いたよ。」
タケルと名乗る少年はまだ小学生低学年といったところだろか。
快活な中にも聡明さが伺える目をしていた。
「タケルとは、気が合いそうだわ。」心底そう思った。
この人間が私の最初の友達となった人物である。
しんしんと雪が夜から降り続いており、タケルは公園に住み着いているカエデのことを心配していた。
公園のブランコの椅子で震えているカエデが容易に想像できて、気が気ではなかった。
翌朝、家に余っていた段ボールと、使っていない膝掛けを母から貰い公園へとタケルは足早に向かった。
母は何故それを欲しがるのかと不思議そうにはしていたが、深く追求はしてこなかった。
外は一面の銀世界だった。
近所の家の屋根にこんもりと積もった雪はアイシングクッキーのようで、少し美味しそうに思えた。
いつもより多少時間は掛かったが、公園に無事辿り着いたタケルは公園の中をぐるりと見渡す。
自分以外の人は雪の朝に公園で遊ぼうとは思わないのだろう、誰も人間は居なかった。
「あら、今日は早いのね?」
鈴のような声がした方に目を向けると、カエデが欠伸を噛み締めながら此方へとやってきた。
この公園は四方をこんもりとした植木に覆われているのだが、どうやらカエデはそこを寝床としているようだった。
「雪が降ったから心配になって…。」
タケルは存外に平気そうなカエデを見て、余計なお世話だっただろうかと声が尻すぼみに小さくなった。
前足で器用に顔を洗いながらカエデは言った。
「タケルが優しいのは分かってるは、本当にありがとう。暫く私の寝床にさせて貰おうかしら。」
カエデはゆっくり目を細めて、ついてきてと言うようにタケルの足元を一回りした。
タケルはカエデに導かれるまま、雪の積もった植木の下を覗き込む。
どうやらカエデはいつもそこで寝起きしているようだった。
「よかったら、これ使って?」
通信販売業者のロゴが入った小さめの段ボールに、膝掛けを4つ折りにしてタケルは植木の根元、カエデがいる所へそっと差し出す。
「ありがとう、これで暫くは寒い思いしなくて済みそうだわ。」
少しくたびれたフリース地の膝掛けの上に座り、カエデは嬉しそうに「にゃおん」と鳴いた。
ついに桜が綻び始めた。
新年度、新学期と、何かと新しいことがあり慌ただしかったが、タケルは公園に居着く野良猫のカエデに会いに行くことは欠かさなかった。
その日もブランコに2人で乗り、珍しくカエデがタケルの膝の上で寛いでいた。
「タケルは今年は何年生になったの?」
喉をぐるると鳴らしながらカエデは背中を撫でているタケルに問うた。
「僕は今日から、4年生になったんだ。」
そうタケルが答えると、カエデは少し興味を持ったようだった。
はらりと桜が風に舞い、公園の地面を薄桜色に染め上げていく。
「その4年生というのは、人間では何歳になるのかしら?」
カエデはころりと、タケルの膝の上で器用に寝返りを打つと反対側の背中をまた撫でるよう無言で催促をした。
「僕は今年の秋で、10歳になるよ。」
そう答えるとカエデは少し驚いた顔をした。
「10年も生きているなんて、人間の寿命は長いのね。」
ふああ、と欠伸をしたカエデに、タケルもつられて欠伸をした。
緩く日差しが照る、春と言うに相応しい日だ。
「10歳って言っても子供のままだよ。何も変わらないし。」
タケルは今年の秋に誕生日を迎える自分に思いを馳せたが、今から大きく何かが変わるとは思えなかった。
「きっと変わるわ。タケルは頑張り屋さんだもの。」
カエデは、優しい声でそう言うと目の前を舞う桜の花弁を目で追っていた。
タケルは何が変わるのか分からぬまま、カエデの背中をふわふわと撫で続けた。
陽が地面を焼き付けるような季節になった。
蜃気楼が見えそうだなあと、タケルは思いながら帽子を取り額の汗を拭った。
公園への道すがら、コンビニで氷菓子を買い溶けてしまわないよう、気をつけながら歩いていた。
カエデはどうしているだろうか。この暑さでうんざりしただろうか。
いつものような飄々とした姿で現れて、器用に顔を洗って見せるだろうか。
公園に着いて、辺りを見渡す。
いつも居るブランコの所には居なかった。
あそこは格別陽が照っていたから、別の場所にいるのだろう。
何処に居るのだろうと、きょろきょろ辺りを見渡す。
「タケル、こっちが涼しいわよ。」
木の根元の木陰で涼むカエデが居た。
カエデの元に行くと、確かに其処は陽が遮られ幾分か涼しく感じられた。
そこでタケルは手に持っていたビニール袋の存在を思い出した。
「カエデ、これ食べられる?」
無味の氷菓子の蓋を開けて、カエデの目の前に差し出す。
不思議そうな顔をして、カエデは慎重に匂いを嗅いだ。
「大丈夫そうよ。」
その返答にタケルは、ほっとした。
1人で食べるのは、流石に忍びなかったのだ。
「どうぞ。」
蓋の裏面に、スプーンで掻き出した氷で小さな山を作りカエデの方へと差し出した。
ぺろりと小さく一舐めした後、カエデは満足そうに目を細めた。
「こんな日にはこれがよく合うわね。」
カエデは、再度小さな氷の山を一舐めした。
紅葉が色づき始め、肌寒くなってきた時節。
タケルはもう間もなく10歳の誕生日を迎える。
誕生日プレゼントを貰い、誕生日ケーキの蝋燭10本の灯りをふうっと吹いて消す。
そんなところだろう。とタケルは、去年の今頃を思い出していた。
カエデと出会ったのもこのあたりの時期だったはずだ。
ほぼ毎日と言っていい程、カエデと会っていたこの1年を思い返す。
草花の名前や、公園内の涼しい場所、など様々なことを教えて貰った。
一緒に食べた無味の氷菓子の味を、今でも思い出せる程だった。
いつものように、学校帰りに公園に寄り道をしたタケルはくるりと周囲を見渡す。
「カエデ。」
ブランコの側の日向で、目を細めているカエデの元に近づく。
「いらっしゃい、タケル。」
この文句は毎度会う度の恒例となっていた。
「今日は大事な話をしようと思っていたの。」
カエデは座り直して真剣な眼差しで、タケルを見つめた。
カエデと同じ目線になるため、タケルはその場に座った。
じゃりじゃりと砂の音がする。
「タケルは10歳になったら、私の姿が見えなくなるわ。だから、もうさようならしないといけないの。」
タケルは言われたことの意味を理解するのに、時間が掛かった。
たった1歳でそれ程に違いがあるとは思えなかったのだ。
「なんで…。」
それ以外の言葉が思いつかなかった。頭の中が混乱する。
「9歳までは、一部の人間は私を見ることができるの。10歳になったら、誰も私を見ることはできなくなる。」
タケルは不思議そうにカエデを見つめる。
背中を撫でた感触もこんなに覚えているというのに。
タケルそっと慎重に、カエデの背中へ手を伸ばした。
触れると思ったその時にスッと空気を撫でることができるだけであった。
タケルはハッとした。自分はもう、カエデに触れることすらできないのだと思い知らされた。
「カエデは、神様…なの?」
そう言うとカエデは目を細めて少し楽しそうに何度か瞬きをした。
「神様なんて大したものじゃないわよ。子供を守るための存在なのよ、私は。」
そういうことだったのか…。
タケルは曖昧ではあるが、カエデの存在を理解しつつあった。
「僕はもうすぐ10歳になるんだ。でも、カエデのことは絶対に忘れない。カエデは僕の友達であり、時には姉のように思っていたよ。」
カエデは、照れ臭そうに顔を洗う仕草をして見せた。
「私もタケルのこと、忘れないわ。さようならは悲しいけれど、きっとまた出会えるわ。」
タケルは自分がいつの間にか泣いていることに気が付いた。
濡れた頬を拭う。
「きっと、きっとまた会おうね。」
タケルはそう言うと笑顔を無理やり作った。
一筋の涙が頬を伝い、カエデをすり抜け、公園の無機質な砂に吸い込まれた。
石ころを蹴りながらの、下校途中。
ランドセルから下げた、給食エプロンの袋がゆらゆら揺れる。
まだ夕陽が落ちるには早い時間帯だ。
今日は塾もないし、少しくらい寄り道しても問題ないだろう。
通学路途中にある公園に立ち寄ることにした。
思っていたよりは人がおらず、ブランコ近くのベンチにランドセルを置き、ブランコに座った。
ギチリと、鉄の鳴る音がする。ゆっくりと、ブランコを漕ぎ始めた時に気がつく。
隣のブランコには、三毛猫が座り此方を見ていた。先程は居ただろうか?
確か三毛猫はメスが殆どだと聞いた事があった。
「どうしたの?ミケちゃん?」
思わず声を掛けてしまった。
「ミケじゃない、私の名前はカエデだよ。」
返事が返ってくるとは思わなかった。
驚いてブランコを漕ぐことすら忘れてしまっていた。猫が話した。
「私は秋に生まれた、だから季節から名前を取ってカエデになったの。母からそう聞いたわ。」
話をするというよりも、頭の中に直接言葉が流れ込んでくるといった方が正しいかもしれない。
カエデの日本語はとても流暢であったし鈴のような澄んだ声をしている。
「貴方の、名前は?」
ゆっくり、目を細めてカエデと名乗るその猫は自分のことを興味ありげに見つめていた。
「僕は、タケル。父さんがタケフミだから、漢字をひとつ貰ってタケルになった。父さんに聞いた事があるよ。」自分の名前と由来を、カエデと同じようにざっくりと語った。
「タケルとは気が合いそうだわ。」
カエデは少し嬉しそうだった。少し空が高くなってきた、初秋の日に僕らは出会った。
朝ご飯を食べる、学校へ行く、塾へ行く、家に帰る、夜ご飯を食べる、そして寝る。
単調な毎日の繰り返しだった。
幸いなことながら、自分は成績は然程悪くなかったので、塾が休みの日でも多少なり帰りが遅くても母は怒らなかった(勿論夕刻を伝える鐘が鳴る迄には必ず帰らなければならないが)。
一言で言えば、「退屈ではあるが、不満はない。」
僕の生活は、正しくその通りであった。
カエデと名乗る猫と出会い、14日程経った。その間色々な事を聞いた。
隣町の猫の話や、この公園に植わっている木や、自然のことが多かった。
実際に会話をすると言うより、戯れに僕の頭の中に言葉を放り込んできていた。
何せ猫なのだから、気紛れだ。
教えてくれとせがんだ花の名前を、次の日にぽろっと教えてくれたりする。
そうして僕らは少しずつではあるが、着実に親密になっていった。
種類の違う生き物とここまで、コミュニケーションが取れるとは生まれて初めて知った。
少し退屈だった毎日のループの輪にカエデが加わり、何故だか僕は毎日が少しだけ楽しみになったのだ。
僕が学校が終わって、公園へ立ち寄るとカエデはいつも決まってブランコの椅子に座って、遠くを見ている。
澄んだ薄黄緑の瞳は何を見ているのだろうか。
僕に気がつくとカエデはその顔はしなくなる。
人懐こく「にゃおん」と鳴いて
「今日は何を話す?」
と聞いてくるのだった。
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