roika_works 絆の結び方 忍者ブログ
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 「そんなこと、百も承知だ!」
「今、ここで僕らが死んだら母さんはどう思う?」
 母犬を助けに行きたいのは、皆同じ気持ちでした。しかし、今出て行っては人間たちに撃ち殺されてしまいます。母犬を助けに行こうとするのを、皆でなだめてどうにかこの場へ踏み止まらせました。
「僕らは、母さんを守れなかった」
「家も母さんも、何も守れなかった」
 黒獣たちは、物陰から自分たちの巣が焼け落ちていくのを見ていることしかできませんでした。やがて、朝になりすっかり大木が焼けたのを確認して、人間たちは帰っていきました。人間たちが去っても、黒獣たちは警戒してなかなか巣穴へと近づきません。太陽の日差しが、雪の表面を溶かす頃、ようやく黒獣たちは巣穴へと恐る恐る近づいていきました。すっかり焼け落ちてしまった大木は、炭のようになってしまいかつての面影はありません。母犬を寝かせた辺りを探してみると、細い骨が僅かながらに残っていました。黒獣たちは、かつての母犬を思って泣きました。真っ赤な瞳から溢れる涙は、母犬と同じ綺麗な水晶のような涙でした。二日間食事をまともにしていない黒獣たちでしたが、そんなことはまるで頭にありません。細い骨を見て、それぞれが母犬を思って泣きました。
「何もかもを奪った人間が許せない」
「僕らの母さんを殺した。こんな大罪が他にあるものか」
「奴らに僕らを怒らせたということを、思い知らせよう」
「そうだ。人間に嫌われたって、どうということはない」
 黒獣たちの涙はすっかり乾いていました。その真っ赤な瞳に宿るのは、静かな怒りです。それは消えることのない、炎のように黒獣たちの心の中に渦巻いていました。人間たちに仕返しをしよう。黒獣たちの決意が固まるのに、そう時間はかかりませんでした。そして、それは次の新月の夜に、実行に移されることになったのです。それまでの間、黒獣たちは静かに怒りを燃やしながらその鋭い爪を研いで待っていました。
 さあ、いよいよ新月の夜がやってきました。黒獣たちは、冷たい洞窟を新しい巣穴としていました。そこは、巣穴から人間が住む村を見下ろせる、絶好の場所にあったのです。村の明かりが全て消えるのを見届けてから、黒獣たちは巣穴を抜け出して人間が住む村へと駆け出して行きました。途中の沢も谷も、難なく乗り越えて村まで一直線に駆け下りて行きます。黒獣たちの心は、人間に仕返しをするという一点のみです。他のことなど、何も気にとめません。村の近くへ辿り着いてから、それぞれ分かれて人間の家へと忍び込んでいきます。
「村の人間は全て殺そう。母さんの命とは、それでも釣り合いが取れないけれど」
「そうしよう。一人だって逃がしてはいけないよ」
「分かっているさ」
 彼らは騒ぎを起こさず、次々と村の人間を殺していきました。扉を開けて忍び込むときも、人間の喉笛を掻き切るときも、まるで音を立てないのです。黒獣たちは、自分たちの力が、こんなときに活きるとは思ってもいませんでした。音も立てずに次々と人間の命を奪っていく様は、ただの獣というよりも死神に近いものがあります。そうして彼らは、村中の人間を殺し尽くしました。一人の人間に騒がれることもなく、それをやってのけたのです。それがどんなに凄く、そして恐ろしいことか分かるでしょう。そして最後に、人間の家へ火を点けました。暖炉にあった木切れを使って、一軒一軒火を放ったのです。どの家も、とてもよく燃えました。新月で真っ暗な村に、燃える家が次々と現れます。そうして、黒獣たちは村の広場に集まって笑いました。
「ああ、せいせいした! これで母さんも少しは浮かばれる!」
「僕たちを怒らせたのが悪い。そうじゃなきゃ、こんなことはしていないさ」
「これで他の生き物も、きっと安心して暮らせるよ」
 パチパチと爆ぜては崩れる家を見て、黒獣たちは笑いました。自分たちが恐ろしいことをしてしまったという風に、まるで思っていないのです。全ての家が焼け落ちるのを見届けてから、黒獣たちは巣穴へと戻っていきました。その足取りは、とても軽く一晩中駆け回ったようには見えません。巣穴の洞窟へと戻ると、そこには見たこともない生き物がいました。人間のような姿をし、黒いローブを身に纏い深くフードを被っています。黒獣たちは、警戒してその生き物をじっと観察しましたが、まるで体温を感じ取ることができませんでした。このとき、初めて黒獣たちは異形の者に遭遇したのです。
「僕らの家で何をしている」
「ほう、父親に対する態度がそれかね」
 急に父親と名乗りだす相手に、黒獣たちは顔を見合わせました。母犬は、父親のことについて何も触れていなかったのです。黒獣たちを見つめる瞳は、黒獣たちと同じく真っ赤な血のような瞳でした。そして、鋭い爪と牙を持ち合わせているのです。確かに、黒獣たちと似ている点はありました。
「父親なら、どうして母さんを助けなかった!」
「あの時が死ぬ時だからだ。それを左右するのは、死神の仕事だ」
「それならお前は何だ」
 詰め寄る黒獣を両手で制しながら、静かな口調で男は続けていきます。その声は、冷たい空気のように巣穴の床を這って広がっていきます。
「我が名は、悪魔。災厄を振りまき、幸福を取り上げ、絶望を与える存在である」
 黒獣たちはそれを聞いてゾッとしたのです。この男が言ったことを、自分たちが村の人間たちに行ったと気がついてしまいました。そして、この男の血が自分たちに流れているということを、実感させられたのです。身体に流れる血をどうにかすることは、誰にもできません。黒獣たちは、自分が悪魔と等しい存在であると認めざるを得ませんでした。
「僕らは、お前と違う。これは母さんの敵討ちだ」
 そう吠えても苦しい言い訳だと分かっていましたが、自ら悪魔であると認めるのはとてもできません。実際、母犬の敵討ちであることに変わりはありませんでした。黒獣たちは、自分たちの力は母犬を守るため、仲間を守るために使うと決めていたはずです。それならば、村一つ滅ぼすような真似をしなくてもよかったのではないでしょうか。黒獣たちは、母犬の敵討ちと銘打って、村の人間を一人残らず狩りたかったという、恐ろしい気持ちを心の奥底に持っていたのです。それは、黒獣たちが意識をしていない、心の深い深い奥底に眠っていたのでした。まだ心が成熟していない若い黒獣たちは、それに気がつくことができません。
「貴様らの力は、害を及ぼす者にのみ正しく振るわれたか? 関係のない人間にまで、その力が及んでいたのではないか?」
 父親である悪魔の言葉に、黒獣たちは返す言葉が見つかりません。自分たちに害を与えた人間は、せいぜい十人足らずです。村の人間全てではありませんでした。それは紛れもない事実です。しかし、黒獣たちは村の人間全てを殺してしまいました。母犬を殺されたという強い怒りが、彼らの正常な判断を奪っていました。今になって、とんでもないことをしてしまったという思いが、それぞれの黒獣たちの心に渦巻いています。後悔をしたとしても、殺した人間たちが生き返るはずもありません。
「これから長い戦争が始まる。終わりのない、人間との戦争だ。人間は世界中に散らばっている。貴様らの行いは、遅かれ早かれ明らかになるのだ」
「そんなこと、知ったものか。母さんに手を出したのは人間の方だ」
「その罪に加担していない人間を手に掛けたのは、貴様らであろう。恨みは連鎖するということを、よく覚えておくのだな」
 悪魔はそれだけ言い残すと、姿を消してしまいました。恨みは連鎖する、その言葉は黒獣たちの心に静かな重石となっていました。あの村とて、他と交流がないわけではありません。出入りをする人間は存在します。黒獣たちが村の人間全てを殺し、家に火を放ったのは紛れもない事実です。いずれ、人間たちはそれに気がつくでしょう。彼らとて、馬鹿ではありません。近いうちに、人間による黒獣狩りが始まるはずです。それが始まる前に、彼らは逃げなければいけません。いくら力があろうとも、数では人間が圧倒的に有利だからです。
「僕らはどうするべきだろう?」
「こちらから仕掛けるのは分が悪すぎる」
「それぞれ逃げよう。僕ら全員が息絶えぬように」
 黒獣たちは、それぞれ逃げるということに決めました。共に行動していると、彼ら全員が死んでしまう可能性が少なからずあったからです。長年過ごしてきた兄弟たちと離れるのは、とても辛いことです。しかし、これ以上誰かが命を落とすようなことは、あってはならないのでした。黒獣たちは、それぞれ違う方角へと駆け出して行きました。互いに決して後ろは振り返らず、なるべく遠くへと走り続けたのです。時期がくれば、また兄弟たちと顔を合わせることが叶うかもしれません。それがいつになるのかは誰にも分かりません。その後、黒獣たちは各地で仲間を増やし、グループで行動をするようになりました。少しずつ仲間を増やしていった黒獣たちは、当然多くの食料を求めるようになります。そのため、人間が暮らしている地域まで山から下ることも、多くなっていきました。多くの人間は、それをよく思いません。自分たちが暮らしている場所で狩りをされては、人間が食べるものが黒獣たちに取られてしまうからです。次第に黒獣たちと人間たちの、生活範囲が重なる地域がどんどん大きくなっていきました。それはいずれ人間と黒獣との戦いの原因となってしまうのです。ある冬に、黒獣たちは食料がなく、山近くの村付近に狩りへ行きました。そこで一人の人間の少年を、食料として狩ってしまったのです。このことに人間たちは、黙ってはいませんでした。多くの人間が、害を与える黒獣たちを根絶やしにしようと声を上げました。食料がなかったからというのは、黒獣たちの都合であり人間たちは知るところがないのです。この食糧難の冬の出来事が引き金となって人間との大規模な戦争が起き、黒獣たちはその数を大きく減らすことになります。人間たちの重火器の前では、黒獣たちは無力でした。人間の勝利により終わった戦争の後、残った黒獣たちは人里離れた山地に住み、ひっそりと暮らすようになったのです。獲物を求めて、山を何日も歩くことはありましたが、人前に姿を現すことは二度とありませんでした。黒獣は自分たちでは、人間に敵わないということを思い知ったからです。
 これが、黒獣たちが生まれて国中へ散らばったという、古い書物に残る物語です。それから近代に至るまで、黒獣たちの記述はぱったりとなくなっています。黒獣たちは人間の前に姿を現すことがなくなってしまったからです。黒獣たちの行いは、人間の書物に残虐極まりないものとして記されており、災いをもたらす不吉な生き物と描かれています。人間と黒獣の戦争は、大昔の出来事です。そのため、彼らの存在を信じている人間はとても少ないのでした。多くの人たちは、黒獣を昔話の中の生き物だと思っているのです。実際は、黒獣たちは数を減らしましたが、今でもひっそりと山の中で生きているのでした。それを人間たちが知ることは、決してないのです。

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 黒獣が伝説の生き物だと言われることが多いのは、彼らにまつわる話があまりにも神話じみていたからです。しかし、黒獣というのは実在する生き物です。
 この世界に黒獣が生まれたきっかけは、何だったのでしょうか。古い書物の一説によると悪魔と黒い雌犬の血を引き、新月の夜にその産声を上げたとも言われています。つまり、噛まれたからといってその生き物が黒獣になるというわけではありません。黒獣は、生まれもっての血筋ということになります。生まれ落ちた黒獣の子たちは、初めはちっぽけで力もなく、ただ震えて鳴くだけの小さく幼い獣でした。その黒獣と呼ばれる子たちを育てたのが、黒い雌犬だったのです。悪魔との子とはいえ、母犬にとっては黒獣も大切な可愛い我が子たちなのでした。乳を与え、狩りの仕方を教え、野山の歩き方を学ばせました。幼く弱かった黒獣たちは、気が付けば立派な黒い大きな犬へと成長していったのです。黒獣たちの成長は目覚ましいものがありました。狩りの仕方を教えれば、すぐに覚えて獲物を仕留めました。足場の悪い山道も、足を踏み外すことなく楽々と走り抜けてみせました。正に、他者を狩るために生まれてきた生き物といった風でした。これらの成長は、母犬を喜ばせましたが、あまりにも手がかからないので心配をしていました。手のかからない生き物は、どこか心がいびつになってしまうからです。黒い雌犬は、若い黒獣たちの発達しきっていない心を心配していました。
 成長した黒獣たちは、自分と母犬はどうやら違う性質を持っているのだと気付き始めていました。自分たちが聞こえる遠くの物音や、隠れている生き物の体温を見ることは、黒獣である自分たちだけに与えられた能力であり、母犬はそうではなかったのです。姿形は、母犬と似たような犬の姿をしていましたが、母犬のように優しい茶色の目ではなく真っ赤に燃える血のような目をしています。牙も爪も、母犬に比べると、うんと鋭くて力の加減を間違えると簡単に物を壊してしまうのでした。黒獣たちは母犬と同じようになりたかったし、なろうと努力をしていました。遠くの物音が聞こえても聞こえないふりをしましたし、なるべく優しい力で物に触れるようにしていました。しかし、別の血が混ざっているためそれは難しいことです。母犬は黒獣たちに違うことは悪いことではないと教えました。与えられた能力は生きるために必要になるものだと教えたのです。遠くの物音を聞き分ける力も、隠れている生き物の体温を見る力も、力強い牙や爪も、全て必要なもので恥じるべきものではないと教えたのです。黒獣たちは、母犬の教えを聞いて改めて自分たちの力を、上手く使おうと決意したのでした。仲間たちを助けるため、母犬を助けるために自分たちの力を使っていこうと決めたのでした。若い黒獣たちは、まだ血の恐ろしさを知らないのです。彼らの意思とは反する行動を起こさせてしまう、恐ろしい血が流れているという実感がまだなかったのでした。
 黒獣たちも成長し、そろそろ独り立ちの日が近付いていた時期のことです。夜中の狩りを終えて巣穴に戻りましたが、母犬はいませんでした。どこに行ったのか見当がつかないので、ひとまず巣穴で待とうということになりました。やがて夜が明けましたが、母犬が戻ってくる気配はありません。いよいよ心配になってきた黒獣たちは、相談を始めました。
「母さんが戻ってこないなんて、おかしい」
「どこへ行ったのだろう」
「心配だよ、探しに行こう」
 それぞれの黒獣たちは呟きます。身体はすっかり大人になりましたが、彼らはまだ子どもに違いありませんでした。母犬が大好きで、寂しがり屋であったのです。まだ雪が溶け切らない三月の早朝に、黒獣たちは母犬を探しに行くことに決めました。何かあったら必ず遠吠えで知らせるという決まりで、彼らは心当たりのある場所を駆けて行きます。いくら捜しても、なかなか母犬は見つかりませんでした。
 途方に暮れた一匹の黒獣が、とぼとぼと村の外れの農場を歩いていました。いくら呼んでも母犬は返事をしませんし、その体温を見ることさえ叶わなかったのです。これだけ探してもいないということは、母犬は自分たちに愛想を尽かしてしまったのではないかと心配になりました。せめて、母犬に育ててくれたお礼を言いたかったのです。何度も母犬を呼びながら、黒獣は駆けました。足に怪我をしても、まるで気になりません。黒獣が駆けて行った後には、血の跡が雪の上に点々と並んでいました。村の外れの農場の片隅に、母犬が倒れているのを見つけました。大急ぎで母犬の元へ駆けつけましたが、氷のように冷たく優しい茶色の目はぴったりと閉じられていました。自分だけではどうにもできないと思った黒獣は、遠吠えで兄弟たちに知らせました。全員が集まるまで五分もかかりませんでした。すっかり冷たくなってしまった母犬は、人間が仕掛けた罠に首を挟まれていました。辺りの雪は赤くなり、逃れようともがいた跡も見られました。母犬の側には、捕まえた狐が力なく倒れていました。母犬は、狩りが終わり帰る途中に、人間が仕掛けていた罠に掛かってしまったのです。黒獣たちは、突然の母犬の死を受け入れられず静かに母犬を見つめるばかりです。
「母さん、母さん」
 何度呼んでも、母犬は目を開けることはありません。それでも、呼びかけずにはいられませんでした。ここにいては、いつ人間に見つかるか分かりません。日が昇りきってしまう前に、どうするかを決めなくてはいけません。
「置いていくなんて嫌だ」
「じゃあどうする?」
「連れて行こう。僕らの家に」
 罠の鎖を噛み千切り、母犬を背中へ乗せて黒獣たちは急いで巣穴へと戻りました。もう助かる見込みがないということは分かっていましたが、母犬を置いていくことなどとてもできなかったのです。巣穴に戻り、母犬の首から罠を取り外して毛皮をかけました。それでも、冷たい母犬が温かくなることはありません。そうして黒獣たちは、食事も忘れて母犬の側へついていました。
「人間が許せない。母さんは、悪いことなど何もしていないのに」
「奴らはまた罠を仕掛ける。犠牲になるのは弱い生き物だ」
「僕らがどうにかしないと」
 黒獣たちは、ひそひそと話し合いをしました。母犬を殺した恐ろしい罠を、二度と仕掛けさせないためにはどうしたらいいのか頭を悩ませました。やがて日が沈み、辺りは闇に飲まれました。他にも危ない罠を仕掛けているかもしれないから、見回りをしてそれを壊そうということに話が落ち着きました。黒獣たちは、こんな思いを他の生き物たちにさせたくはなかったのです。林道の側、納屋の裏、食料庫、罠はあちらこちらにありました。見つけた罠を一つ残らず壊しながら、彼らはそれぞれの持ち場を見回って行きます。暫くすると、巣穴の方から奇妙な音が聞こえてきました。パチパチという何かが爆ぜる音が聞こえます。胸騒ぎがして、一匹の黒獣が巣穴の方へと駆け出しました。巣穴の様子がおかしいと、遠吠えで兄弟たちへ知らせます。巣穴の近くへと戻った黒獣は、巣穴に火が点けられたのだと悟りました。松明を持った何人もの人間が、巣穴を取り巻いています。古い大木の根元を巣穴としていたのですが、大木はぼうぼうと燃えており、燃え尽きた枝が地面へ次々と落ちてきます。とても近づくことはできません。
「あそこに、母さんがいるのに!」
「今行ったら危ない、あの人間たちは猟銃を持っているよ」
 人間たちはそれぞれ、猟銃を肩から下げています。あの猟銃で撃たれたら、いくら黒獣とはいえただではすみません。それは、母犬から教わったことでした。

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 「おやすみなさい」
 クレアは眠たそうな声で、ショーンに返事をします。ショーンが声をかけて、部屋を出る頃にはクレアの大きな目はうとうととしていました。キッチンで大きなマグカップにミルクティーを作ったショーンは、書斎へと入って行きました。買ってからなかなか読むタイミングのなかった本を、読もうとしているようです。表紙は難しい言葉で書かれています。こうしてショーンは毎日、丑三つ時になるまで本を読んで過ごしていました。人間に変身するための薬は、一日に一度変身が解けたときに飲まなければいけません。そのため、ショーンの書斎には夜遅くなってもランプの灯りが煌々と点いているのでした。本を半分ほど読み終えた頃、窓がしまった書斎でショーンの前髪が靡きました。いよいよ、変身が解ける時間が来たようです。
「さて、時間か」
 ショーンは書斎の鍵をかけ、一つ溜息を吐きます。万が一、クレアが起きてしまっては大変です。変身が解けて人間から元の黒獣(こくじゅう)に戻るときには、少なからず体力を消費します。ゆらゆらと揺れる影は、少しずつ姿を変えていきます。大きな耳、鋭い牙、赤い瞳、ナイフの様な爪、どれもが昼間のショーンの姿からは想像ができないものです。ショーンは、大きな黒い爪で器用に粉薬の包みを破いて薬をガブリと飲み込みました。決して美味しい薬ではありません。しかし、これを飲まなければ今までの平和な暮らしができなくなってしまいます。ショーンは、ただただ静かに平和に暮らしたいのでした。
 薬を飲んで人間に変身するのも、無闇に人間を襲ってしまうことのないようにするためです。ショーンは自分が人間を襲ってしまうことを、恐れていました。自分のそういった残虐な一面を、薬で人間に変身するということで打ち消そうとしているのです。ショーンは自分が忌み嫌われる、黒獣であることを理解していました。しかし、ショーンは人間を嫌うことはしません。果たしてそれは何故でしょうか。
 薬を飲んでしばらくすると、ショーンは人間の姿へと変身が終わりました。ほうっとひとつ、深い溜息を吐いたショーンは椅子に深く腰掛けました。マグカップに入っていたミルクティーはすっかり冷めてしまっています。ショーンはいつまで、この秘密を一人で抱えていくのでしょうか。
 今はクレアに秘密にすることができていますが、いつまで秘密にしていられるかは分かりません。秘密がばれてしまうのは、明日かもしれないですし一年後かもしれません。ずっと秘密にしていられるという訳ではないということは、ショーンも理解していました。では、何故ショーンは人間の少女であるクレアを引き取ることにしたのでしょう。ただ、自分が寂しいからとかそういった理由ではないようです。その理由をお話しするには、今よりずっと昔の出来事を、思い出さなくてはなりません。
 それは、世界がまだ混沌に満ち溢れ悪が蔓延り、後に暗黒の時代と呼ばれるようになった時代のことです。ショーンがクレアと出会う、うんと前の時代です。

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 「じゃあ、いただきます」
「いただきます!」
 クレアは元気よくそう言うと、サケのムニエルを食べ始めました。バターの香りが食欲をそそります。サラダにかかった、オリーブオイルベースのドレッシングも美味しいです。このドレッシングは、ショーンのお手製のものです。
「おいしい」
「よかった、よかった」
 ニコニコと笑って食べるクレアを見て、ショーンはホッとしました。こうやっている様子を見れば、歳相応の女の子です。ただ、クレアには様々な教育を施さなければなりません。読み書きがまだできないクレアには、読み書きを教えていかなければいけません。一人前の人間として生きていくためには、せめて読み書きができないと難しいでしょう。これから少しずつ、ショーンはクレアに教えていこうと思っています。二人でゆっくりと夕ご飯を食べて、クレアは一人でお風呂に入っていました。猫足のバスタブの中は、白い泡で覆われています。クレアはこうして泡風呂で遊ぶのが、一日の中でも楽しみな時間でした。ふわふわとした泡は、湯船の表面が見えないほどたくさんあります。シャワーを浴びて、泡を流してからクレアはパジャマに着替えました。少し厚手のパジャマは、肌寒い秋の日にぴったりです。
「ショーン、お風呂おわった」
 クレアはリビングへと戻り、本を読んでいるショーンに声をかけました。ミルクティーを飲みながら、難しそうな分厚い本を読んでいます。
「ああ、さっぱりしたかい?」
「うん」
「じゃあ、このジュースをどうぞ。私も風呂に入ってこよう」
 ショーンは、テーブルにオレンジジュースの入ったコップを置いていきました。クレアはオレンジジュースを飲みながら、静かなリビングをぐるりと見回します。花瓶が置かれたテーブルには、キャンドルがいくつか乗っています。ミルクのような色をしたキャンドルたちは、火がついていないととても静かです。リビングにも本棚があります。そこには、料理の本が入っていました。ショーンは、自分で料理をすることが好きなようです。クレアは一冊の本を取り出しました。字は難しくて読めませんが、料理の挿絵がたくさんある本は見ていて飽きることがありません。クレアがオレンジジュースを飲み終わる頃に、ショーンは戻ってきました。
「おや、本を見ていたのかい?」
「うん。これ」
 クレアは本の表紙を、ショーンに見せました。ショーンは髪の毛をタオルで拭きながら、クレアが見せた表紙を見ます。
「なるほど。『おいしいおかしの作り方』か。最近作っていなかったな」
「おかし? ショーン作れるの?」
「まあ、簡単なものだけれどね」
「作る? お手伝いする」
 クレアは目をきらきらと輝かせて、ショーンに話しかけます。それに、流石のショーンもまいったようで、困ったなあと笑いました。
「じゃあ、明日はクレアのエプロンを買った後に、おかしを作ろう」
「うん!」
 クレアは嬉しそうにそう言うと、手に持っていた本のページを再びめくり始めました。一体ショーンはどんなおかしを作ってくれるのでしょうか。クレアは楽しみで仕方ありませんでした。寝る前にはショーンが作ってくれた、ハチミツ入りのホットミルクを飲みます。ホットミルクを飲むと身体がぽかぽかとして寒さを消してくれます。ショーンはミルクたっぷりなミルクティーがお気に入りのようです。
「さあ、クレア。そろそろ寝る時間だよ」
 しばらくのんびりとしていましたが、時計の針が九時を回るころになるとショーンはクレアの寝支度をさせます。今日は掃除に散歩に、クレアも疲れていると思ったからです。
「うん」
 クレアは素直に頷いて、歯磨きをして寝支度を整えました。後は、ベッドに入るだけです。
「今日はこの絵本を読もうか」
 今日ショーンの部屋からクレアの部屋へ移した絵本のうちの一冊を、ショーンは持っていました。絵本の表紙は、飾り枠で囲われておりタイトルがきらきらとしたインクで印刷されています。まるで、夜空に星をこぼしたかのようです。
「なんの絵本?」
「今日は『カップケーキの友達探し』を読もう」
「おいしそうな名前」
「そうかい?」
 ショーンは、クレアに絵本を読み聞かせます。絵本に描かれている絵は、どれもふわふわとして砂糖菓子のようです。足の生えたカップケーキが、自分の頭に乗せるトッピングを探しに行く物語でした。色々なケーキが出てきて、目にも楽しい絵本です。カップケーキは最後には甘酸っぱいラズベリーを選んで頭に乗せました。これがショートケーキだったらきっとイチゴだったことでしょう。ココア生地のカップケーキには、甘酸っぱいラズベリーがぴったりでした。クレアは絵本の絵を見ながら、ページをぱらぱらと捲っていきます。
「カップケーキは、ラズベリーと幸せになれたのかな」
 クレアはぽつりと呟きました。めでたし、めでたしで終わった物語でしたが、選ばれなかったブルーベリーやチェリーのことを考えるとさみしい気持ちになります。
「きっと、幸せになったと思うよ」
「ブルーベリーとチェリーは?」
「他のケーキが選んでくれるはずさ」
「そっかあ」
 クレアはフルーツタルトやチーズケーキが、ブルーベリーとチェリーを幸せにしてくれたら良いのにと小さな溜息をつきました。ショーンはクレアの頭を撫でて、大丈夫だよと慰めました。
「ブルーベリーもチェリーも、誰かに選ばれるときを待っているのさ」
「そうなの?」
「クレアはどうだい?」
「え?」
 ショーンの言葉にクレアは目をぱちくりとさせました。
「クレアも、誰かに選ばれるときを待っていたのではないかい?」
「あ……」
 そこでクレアは闇市での生活を思い出しました。誰も身体の小さなクレアを選んでくれませんでした。同じ時期に商人の元に集まった子供たちは、とうに売れてしまってクレアは寂しい思いをしていました。やはり身体が小さい自分では、誰の役にも立てないのだとクレアは落ち込みました。しかし、そこにショーンが現れたのです。たまたま一人で残っていたクレアを、ショーンは買い取りました。金貨五枚というのは、決して安いお金ではありません。
「そうだった」
 クレアはほんの数日前の自分のことを思い出します。わずかな希望を持って、誰かが選んでくれるかもしれないとずっと待っていたのです。もしかしたら、絵本に出てきたブルーベリーやチェリーも同じ気持ちだったかもしれません。
「だからきっと、ラズベリーもチェリーも大丈夫。選んでくれる相手がいるよ」
 ショーンのその言葉に、クレアはホッとしました。誰も選んでくれないまま、終わりのない時間を過ごすことはとても悲しいことだからです。
「うん、そうだね」
 納得した様子でクレアは、ふわふわの毛布を首元まで引き上げました。絵本のページを捲っていた指は、いつの間にか止まっています。ランプの灯りを小さくし、ショーンはクレアのベッドから立ち上がりました。
「おやすみ、クレア」
 柔らかく淡い金髪を撫でて、ベッドサイドにあるランプの灯りをショーンは落としました。柔らかなオレンジ色に満たされていた部屋は、青く黒い夜の色にとって変わりました。

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 「これ、何て書いてあるの?」
 クレアは一冊の図鑑の表紙をショーンに見せました。脚立で上の棚の本棚を見ていたショーンは、目を細めてその表紙の文字を読みます。
「どれ……。『光のいきものと闇のいきもの』だね」
「ひかりとやみ?」
 クレアはいきものに、そういった分け方があるのを知りませんでした。もちろん、闇市には不思議な人はたくさんいました。普通の人間とは違う彼らのことを、光と闇で分けられることが少しだけ不思議です。クレアは自分がその図鑑に載っていないのは、ただの人間だからだと思いました。
「少し難しいかな……。今度読んでみるかい?」
「でも、字が読めないの」
 小さい声でクレアはしょんぼりと呟きました。しかし、ショーンはそれを全く気にしていない様子です。
「いいかい、クレア。出来ないことは恥ずかしいことじゃない」
「うん」
「字が読めなければ、一緒に練習しよう」
「わかった」
 ショーンはクレアの頭を撫でました。しょんぼりとしていましたが、クレアは元気な気持ちを取り戻しました。クレアはできないことが、まだまだたくさんあります。ナイフとフォークはまだ難しいですし、料理も難しいです。ですが、クレアは何もできないということではありません。それをショーンは分かっているようでした。
 クレアが選んだ絵本と図鑑を、二人でクレアの部屋へ運びました。クレアの部屋には背の低い本棚がありましたが中身は入っていません。そこに、図鑑と絵本を次々としまっていきます。全ての本をしまうと、空っぽだった本棚は色とりどりの背表紙に彩られていました。さて、本の片付けが一段落しました。ショーンは読まなくなった本をいくつか束ねて紐で縛りました。この本は古本として、後で売るそうです。
「さて、クレア。少し近所を散歩しようか」
「うん!」
 二人は折角なので、近所を散歩することにしました。クレアはショーンが昨日買ってくれたこげ茶色のワンピースと黒い靴に着替えました。昨日まで着ていた服は、ぼろぼろだったのでショーンが新しい服をいくつか買ってくれたのです。晴れていると街並みは昨日と違って見えました。石畳の道にレンガ造りの家が並んでいます。どの家も玄関先に小さな植木鉢で花を育てていました。ある家は赤い花、ある家は黄色い花、色も形も様々です。歩道に植えられている街路樹は、黄色く色づいています。
「きれいだね」
「ああ、イチョウは今が見ごろだね」
 ショーンは背の高いイチョウの木を見ているクレアの手を取り、歩みを進めていきます。クレアは手を引かれるまま、のんびりとした歩調でショーンの後ろをついていきます。クレアの小さな手には、いつの間にかイチョウの黄色い葉が握られていました。近所を散歩していると、ショーンに声をかける人がいました。
「あら、ショーン。ごきげんよう。可愛いお嬢さんね」
「メアリー、こんにちは。クレア、こちらはミセス・メアリーだよ」
「こんにちは、クレアです」
 クレアは緊張しながらも、ぺこりと頭を下げて挨拶をしました。ミセス・メアリーは、クレアを見てにっこりと微笑みました。
「きちんとご挨拶できてえらいわね。私はメアリーよ、どうぞよろしく」
「この間は、リンゴをどうもありがとう。今度紅茶の茶葉を買いにまた伺うよ」
「まあ、ありがとう。そのときには、クレアに合う紅茶も用意させてもらうわ」
「ああ、どうもありがとう」
「いえいえ。では、またね」
 ミセス・メアリーは、紅茶の香りを残して去っていきました。ショーンの話によれば、ミセス・メアリーは近所のカフェの人だそうです。ご主人とともに、カフェを切り盛りしているそうです。どんな素敵なカフェだろうと、クレアの想像は膨らむばかりです。二人はしばらくの間近所を散歩して、公園に寄り道をすることにしました。ブランコに乗ったクレアは、ぐんぐんとブランコをこいでいます。ブランコが前後するたびに、クレアの淡い金髪がゆらゆらと揺れています。ショーンはクレアが持っていたイチョウの葉を預かっていました。ショーンのてのひらに収まる小さいサイズのイチョウの葉ですが、クレアの手には大きいイチョウの葉です。クレアはそれが気に入ったようで、家に持って帰ると言って喜んでいます。
「さあ、クレア。そろそろ家へ戻ろうか」
「うん!」
 クレアは乗っていたブランコから、ぴょんと飛び降りてショーンの元へ駆け寄りました。そして、当たり前のようにショーンの左手を握りました。こうしてクレアが少しずつショーンに慣れてきていることが、嬉しく感じます。ショーンはクレアの手を取って、家への道を歩いていきます。
 二人が家に着く頃には、お日様が西へ傾き始めていました。西日が差し込む窓辺に、レースのカーテンをひいていきます。部屋のランプをつけると、オレンジ色の光で満たされました。
「さてと、今日は魚料理にしよう」
「おさかな?」
 クレアは目をきらきらさせて、食料庫の方を見つめています。さて、これから二人で夕飯の支度をします。ショーンは食料庫から、魚を取り出しました。既に塩で味つけがされているものです。クレアはショーンからレタスの葉を何枚かもらい、それを一口大にちぎることになりました。今日は、クレアも夕ご飯のお手伝いをします。
「そうだなあ、クレアにはエプロンを買っていなかったね」
「エプロン?」
「ああ、洋服が汚れてしまわないように、エプロンをしてから料理をするのだよ」
「ふうん」
 今日はひとまずこれで我慢しておくれ、とショーンはクレアに大きいエプロンをつけました。クレアは大きいエプロンをして、レタスの葉をちぎります。小さい器にちぎったレタスの葉を敷き詰めて、その上にミニトマトをのせました。こうすれば、立派なサラダになります。
「できたよ!」
「うん、ありがとう。じゃあ、テーブルへ置いておくれ」
「わかった」
 クレアは、大きいエプロンを外して、テーブルにサラダを置きました。ナイフとフォークも一緒に並べます。昨日、ショーンが置いていたのを真似して置いてみました。魚が焼ける匂いが、キッチンに広がっています。バターを溶いたフライパンに、味つけをしたサケがぱちぱちと音を立てています。ショーンがサケをひっくり返すと、こんがりときつね色に焼けていました。出来上がりまでは、もう少しです。
「もう少し待っていておくれ」
「うん」
 頷いたクレアは、大人しくサケが焼けるのを待っていました。ショーンはサケのムニエルを作っています。そして、空いているフライパンでジャーマンポテトを作っていました。どちらもいい香りがしてきました。
「さて、クレア。平たいお皿を取ってくれるかな」
「これ?」
 クレアは食器棚の中にある、平たくて大きいお皿を取り出しました。クレアの顔よりも大きなお皿です。ショーンが頷いたので、クレアはお皿をキッチンの台に置きました。二人分のお皿に、ショーンはサケのムニエルとジャーマンポテトを盛り付けました。盛り付けたお皿は、ショーンがダイニングテーブルへ置きました。クレアはその後をついて、ダイニングテーブルのイスに座りました。ショーンは、水差しとグラスを持ってきました。

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 ショーンは部屋でミルクティーをゆっくりと飲んでいました。時計の針は、真夜中の二時を回った頃です。家中の全てのものが、静かに息を潜めている時間になりました。ショーンは、クレアに話していない秘密が一つだけあります。何故ショーンは、闇市に出入りしているのでしょう。普通の人間は、危ない闇市の近くへは近寄りません。そこには、人間だけではなく異形の者が数多く出入りしているからです。ショーンもそれを知らない訳ではありませんでした。
「時間か……」
 ショーンはゆっくりと立ち上がり、洗面所へ向かいます。コップに水を注ぎ、しばらく待ちました。やがて、コップの水面が小さく揺れ始めます。ショーンは、それを待っていました。ショーンの手には鋭い爪が生え、口は大きく裂け、黒くて大きな耳が髪の毛の隙間から覗いています。これがショーンの秘密でした。鋭い爪で器用に粉薬の袋を開けて、コップの水で流し込みます。真っ赤に染まった瞳が、徐々に元の灰色に戻っていきます。鋭い爪も大きな口も大きな耳も、いつの間にかなくなっていました。ショーンは、粉薬の力で人間に化けている黒い獣だったのです。それは黒獣(こくじゅう)と呼ばれる獣でした。人間には悪魔(ディアボロ)の手先だと言われている恐ろしい獣です。ショーンが黒獣であることを知っている人間は、一人としていません。ショーンはこの秘密を、クレアに話そうとは考えていないのです。クレアがショーンを嫌ってしまうという心配もありました。幼いクレアは闇市で生きるより、人間の世界でまっとうに生きる方が幸せになれるとショーンは思っていたからです。黒獣である自分がクレアについていれば、身に降りかかる危険から守ることができます。ショーンはクレアが大人になるまでその成長を見届けたいと思っているのでした。
 粉薬が入った紙袋を、ショーンはクローゼットの上の棚に隠しました。ここなら背の低いクレアの目につく心配はありません。うっかり、薬を飲んでしまうなんてことがあっては大変です。ショーンはミルクティーが入っていたマグカップを、キッチンに持って行き片付けました。辺りはまだひっそりと静かです。蛇口を閉める音がキッチンに響きました。ショーンは部屋に戻る途中に、ランプの光が漏れるクレアの部屋に寄り道をしました。広いベッドの端の方に、クレアは小さく丸くなっていました。淡い金髪はランプの光で、オレンジ色にきらきらと輝いています。ショーンは、クレアの目尻に小さな涙の粒があることに気が付きました。あくびのせいという訳ではなさそうです。怖い夢でも見ているのか、ショーンは少し心配になりました。小さな涙の粒は、ショーンの指先を僅かに濡らすばかりでした。これまでと大きく環境が変わったことで、クレアは少しの間苦労をするかもしれません。その手助けをできる限りショーンはするつもりでした。クレアが眠れないと言えば絵本を読み、お腹が空いたと言えば好きな食べ物を料理しようと考えています。そのことをクレアは知りません。まだ二人は一緒に住み始めて一日目なのです。ショーンはクレアのことが気がかりではありましたが、ランプの灯りを落として部屋へと戻りました。空に浮かんでいるお月様だけが、ショーンの秘密もクレアの涙も全て知っています。それは、秋になって一番寒い日のことでした。
 お日様は、何の変わりもなくいつも通り昇りました。二人は一緒に朝ごはんのシリアルを食べています。シリアルはスプーンで簡単に食べられるので、クレアはホッとしていました。まだナイフとフォークはクレアには少しむずかしいのです。
「このカリカリしたの、なんで甘い味がするの?」
 シリアルは、ほんのりとチョコレートの味がします。ですが、チョコレートのように茶色ではないのでクレアは不思議に思いました。シリアルの小さな粒たちは、小船のようにぷかぷかとミルクの海に漂っています。
「それはね、ココアパウダーという甘い粉の味だよ」
 よく見るとシリアルの小さな粒には、これまた小さな粒のココアパウダーがついていました。シリアルはクレアも何度も食べたことがあります。ですが、これまで食べたものはこんな風に甘くなかったのです。ココアもクレアは知っていましたが、闇市で前に飲んだココアは味が薄くてちっとも美味しくなかったのを思い出しました。こんな風に美味しくて甘いシリアルは初めて食べました。
「甘くておいしい」
「良かった。りんごは好きかい?」
「うん」
 ショーンはキッチンに置いてあった果物かごから、りんごを取って皮をむき始めました。大きな手が器用にくるくるとりんごの皮をむいていきます。クレアはそれが魔法のように思えて、ショーンの手元をじっと見ていました。りんごは綺麗に切り分けられ、お皿の上に盛り付けられました。小さなフォークを添えて、ショーンはクレアの方へお皿を置きます。
「お食べ。この時期は、りんごが美味しいから」
「ありがとう」
 クレアは小さなフォークで、りんごを食べ始めました。のんびりとした朝ごはんは、久し振りです。闇市で商人の売り物として暮らしていた頃は、こんな風にゆっくりと食事をすることもありませんでした。ショーンと暮らすようになり、クレアは初めて経験することが増えていきます。
「おいしい」
 甘い蜜が詰まったりんごは、ジュースのように美味しいです。このりんごでジャムを作ったらどんなに美味しいことでしょう。
「ご近所の人に貰ったりんごだよ。今度お礼に行こうか」
「うん」
 昨日ショーンの家に帰ってきたときには、夕方だったので周りにどんな人が住んでいるのかクレアはまだ知りません。優しい人だったら良いなと思いながら、クレアはりんごをむしゃむしゃと食べました。朝ごはんを終えたあとは、二人で家の掃除をしました。クレアはモップで床を綺麗に磨きました。モップの方がクレアよりも背が高いので、少しだけ大変でした。クレアは掃除が得意です。闇市の商人のところにいたときに、クレアは掃除係だったからです。床拭きも窓拭きも、クレアは一生懸命やりました。キッチンに廊下にクレアの部屋、そこまでモップで掃除をしているともうすぐお昼ごはんの時間です。クレアは背の高いモップをバケツの水で洗い、汚れた水を下水へと流しました。やっと、掃除は一段落しました。
「クレア、ちょっとこっちへ来てごらん」
「はあい」
 ショーンが書斎の方からクレアを呼んでいます。クレアはモップとバケツを片付けて、書斎の方へと走っていきました。書斎の大きな扉を開けると、床にはたくさんの本が積み重なっていました。ショーンは本の整理整頓をしているようです。
「好きなものがあればクレアの部屋へ運ぼうと思うのだが……」
「選んでいいの?」
「ああ、もちろん。お昼ごはんを食べてから、色々見てごらん」
「ありがとう」
 その日は天気が良かったので、小さな庭で二人はサンドウィッチを食べました。ふわふわとした食パンの間には、トマトやハムが挟んであります。少し休憩をしてから、ショーンの書斎で二人は本を選びました。ショーンは難しそうな分厚い本を何冊か取り出して、それぞれ読み比べています。クレアは、色々な本の中からいくつかの絵本と図鑑を選びました。絵本と図鑑は挿絵がたくさんあり、それだけでも十分楽しめます。ただ、クレアは字が読めないので、どういうお話が書いてあるのか分かりません。

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 昔々あるところに、ショーンという男が住んでいました。紅茶と読書が好きな、物静かな紳士でした。ある日ショーンは闇市で、少女に出会います。少女は名前をクレアといいます。十歳程の、淡いブロンドヘアの少女でした。
「お嬢ちゃん、歳はいくつになるのかい?」
 ショーンの質問にクレアは少し困った様子でした。クレアは数字を数えることができなかったからです。商人が、十歳だと教えました。クレアは同年代の子より、うんと小さいです。
「私で良ければ、一緒に住まないかい?」
 ショーンはクレアにそう声をかけました。クレアは丸い目をぱちぱちと瞬きして、商人の顔を見上げました。
「旦那、これは返品不可ですよ」
 商人は少し訝しんで、声をかけました。
「ああ、それで構わないよ。おいくらだい?」
「金貨五枚です」
 商人に言われたとおり、ショーンは財布から金貨を取り出して渡しました。足かせがつけられていたクレアの細い足首は、こうして自由になりました。
 粗末な服を着て靴を履いていなかったクレアに、ショーンは一通りの日用品を買い揃えました。クレアは、ショーンにお礼を言います。路地裏の石畳は、ひどく冷たくクレアの足をいつも氷のようにしてしまっていました。
「気にしなくて良いんだよ」
 クレアの頭を撫でて、ショーンは優しい声で言いました。
 ショーンはクレアをおんぶして、その日は帰りました。小柄なクレアは、羽のように軽く感じられます。帰り道にクレアは色々なことを話しました。大家族の末っ子だったこと、忙しく働く両親のこと、両親の助けになりたかったこと。クレアは話をしましたが、何故自分が商人に売られたのかは分かりませんでした。クレアは闇市での生活が長くなり、少しずつ家族のことを思い出すのが難しくなってきました。最後に見た家族の姿は、ごめんなさいとクレアに謝る姿です。それも遠い昔のことのように、思い出されます。
「良かったら、私を君の家族にしておくれ」
「あなたを?」
「ああ、私で良ければね」
 ショーンは静かに言いました。クレアがどんな顔をしているのか、ショーンには分かりません。
「あなたは……家族はいないの?」
「随分前からいないよ」
 ショーンは随分と前に家族を亡くしてから、一人ぼっちでした。クレアは、それがどんなに静かであてどない生活だったか想像できません。
「おじさんは、私の家族になってどうするの?」
「君を立派な女性に育て上げるよ」
 家に帰り着いた二人は、まずクレアの部屋を決めました。お日様の光がたくさん入る、明るい部屋です。今まで、暗い闇市にいたクレアは、その光がまぶしくて目を何度か瞬きしました。
「本当にここ使っていいの?」
「いいとも」
 ショーンの家は、一人で暮らすには広く大きな家でした。しかし、どの部屋もきちんと掃除が行き届いていて、ぴかぴかと輝く窓が眩しいです。クレアが気に入ったのは、ショーンの書斎でした。そこにはたくさんの本がありました。ただ、クレアは文字を読むことができません。表紙に綺麗な星が描かれた本を、クレアは手に取りました。
「気になるかい?」
「うん」
「これはいい絵本だ。今晩、これを読もう」
 絵本を読んでもらうことは、クレアにとって久し振りのことでした。まだ字が読めないクレアは、自分で本を読むことができません。絵本を読んでもらうのは、とても好きでした。そこには、クレアの知らない世界がたくさん広がっているからです。
 この日の夕飯は、ごちそうでした。温かいスープに分厚いハンバーグをショーンは作りました。小さい子どもが好きだと前に聞いたことがありました。
「さあ、クレア。夕飯にしよう」
「わあ、おいしそう!」
 クレアはおいしそうな夕飯を前に、もじもじとしていました。綺麗に並んだナイフとフォークの、どれを使ったらいいか分からなかったのです。そんなことを言ったらまた捨てられてしまう気がして、クレアはショーンに言いだせません。ショーンは困った様子のクレアに、ナイフとフォークを手渡しました。ほっとした顔でクレアはお礼を言います。
「ありがとう」
「難しかったら、フォークから練習してごらん」
「うん」
 クレアは、分厚いハンバーグをナイフで切りました。ハンバーグからじわりと溢れる肉汁が、お皿の上に広がります。焼き目がきちんとついたハンバーグは、少し熱いですが温かい食事はとても嬉しいものです。ナイフとフォークを使う食事は久し振りでした。クレアは慣れない手つきですが、ハンバーグを食べます。
「おいしい」
「良かった。たくさんお食べ」
 温かいハンバーグにスープに、クレアのお腹はいっぱいになりました。
 ふわふわの泡がたくさん溢れるお風呂は、クレアをとても楽しませました。こんなお風呂は初めてでした。新しいタオルに新しいパジャマ、何もかもが新しくてぴかぴかして見えます。ただのお風呂もとても楽しいのです。
「髪の毛を乾かそう」
 ショーンは長く伸びたクレアの髪の毛を、タオルで優しく拭きました。淡いブロンドの髪の毛は、きらきらと光っています。こうして誰かに髪の毛を拭いてもらうことは、とても久し振りのように感じられました。最後にこういう風に髪の毛を乾かしてもらったのは、クレアが闇市に売られる前のことでした。
 約束通り、ショーンはクレアに絵本を読みました。ショーンの書斎でクレアが見つけた、星の話の絵本でした。星もいつかは輝かなくなってしまうということを、クレアは知りました。きらきら光る星しか知らなかったクレアは、星も死んでしまうと思うと悲しくなりました。輝くことができなくなった星達は、どうなってしまうのでしょうか。ずっと真っ暗な空を、宙ぶらりんのまま過ごさなくてはいけないのでしょうか。そう考えると、クレアは家族と離れ離れになってしまったことを、思い出さずにはいられませんでした。ショーンの温かい食事も、寝る前の絵本も、昔クレアの母がそうしてくれたことを思い出させました。絵本を読み終わった後、急に静かになったクレアにショーンはホットミルクを作ってくれました。温かいミルクには、砂糖が入っていて飲んでみるとほんのりと甘く感じられます。
「ありがとう」
「お安い御用だよ。今日は疲れただろう、ゆっくりとお休み」
「うん」
 少しだけ寂しい気持ちをクレアは思い出しました。ショーンといることで、家族のことを思い出すのはなんだか不思議な気持ちがします。クレアは歯磨きをして、広いベッドに寝転びました。天井がとても高く感じられます。暖かい毛布をかけて、何度か瞬きをしました。ベッドの傍にあるランプが部屋の中をオレンジ色に照らしています。暖かいベッドで眠るのは久し振りでした。この日はクレアも疲れていて、いつの間にか眠ってしまいました。小さな寝息を立てているのを見ているのは、空のお月様だけです。ぐっすりと眠っているクレアは、ショーンの秘密をまだ知りません。

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